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今昔
祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。
沙羅樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。
猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の壁に同じ――
1185年――
それは時が経つごとに強くなってきた。
船の部屋の外は、戦場だった。
潮の匂いとともに、生臭い鉄の臭いが漂ってくる。矢が空を切り裂く音、男どもの怒声と金属のこすれる音。それに断末魔――
「外はどうなっているのじゃ!!」
御婆の声に、少年は青い顔を向ける。
その少年は漂う臭いと船の揺れに、ひどい船酔いをしていた。
朝とった食事も胃の中から戻し、すでに空っぽ。のどが渇き、水を求めたが、それも吐き戻していた。周りにいる女官たちも同様だ。船酔いと外の怒号に怯えている。
御婆は怒りに満ちた顔を見せていたが、少年の顔を見ると、ハッとしたかのように微笑んで見せる。
少年は、子供心に「この戦は負ける」と感じていた。
思えば大人たちに手を引かれ、福原を後にして西へ西へと向かい始めてから、ずっと思っていたことだ。
だが、口にはしなかった。
幼い自分の言葉など、力もない。
この国の最高の位だといっても、自分の言うことは大人たちは笑っているだけた。声をかけたことでどうにかなることではない。
雨の中、手を引かれ、泥だらけの道を歩きながらずっと思っていたことだ。
「海の戦いなら、今度こそ負けませぬ!」
長門の国での戦いに、大人たちが息巻いていた。
――海の戦いに、前は負けたではないか。
そして、この戦の前に占った結果は、「早期に決着をつければ吉。長引けば凶」と。
少年はそれを口にしなかった。
――正面の船は敵だ。南の隙にも人の姿が見える。あれも敵だ。
子供ながら自分の都を追われ、長門の国に追い詰められたことを知っている。
小屋の隅から覗いた海……海峡を挟んで対峙する源氏の船は多い。だが、この瀬戸内海を制していたか我ら平氏のほうが地の利を活かした戦いができる。それに「吉兆ですぞ」と、入鹿魚の群れが船底をすり抜けて、源氏のほうに突進していた。
大人たちが喜んでいる間に、少年は見た。
イルカの群れが、さらに大きな何かに追われていくところを――。
――あれが吉兆の証しだろうか?
子供ながらに恐怖した。
あのイルカの群れは、源氏へ向かっていった、巨大な何かに追われて。イルカよりも数倍、自分たちが乗る船よりも更な大きな何か……それが、自分たち平氏のように見えた。
イルカが平氏、巨大な何かが源氏。
そして、日が頭上をすぎる頃、再びイルカの群れが現れた。今度は自分たちのほうへ、少年が乗る船底を抜けていった。
「申し訳ございません!」
突然、ひとりの武者が少年たちの小部屋に転がり込んできた。
外の熾烈な戦いを物語っている姿だ。何本も矢を鎧に刺し、血のりをつけていた。血と汗の臭いが鼻につく。
「卑怯にも、連中は漕ぎ手を射ち殺しております。成良の軍勢が裏切り――」
「もうよい!」
御婆の声が響いた。そして、新たな男の声が聞こえてきた。
「もはやこれまで!」
気が付くと入り口に武者が立っている。汗と血の匂いがひどい。激戦の末、この船までたどり着いたのか、肩を上下させて息をしている。
「叔父上!」
少年の声に、彼は振り向きもしない。その代わり周りにいる女官たちに向けると、大笑いを始めた。
「これから珍しい東男を見られますぞ!」
その言葉に何を意味していたのか、少年には解らなかった。だが、女官は船酔いで青ざめていた顔が、急に奮起したかのように赤く染まり始め、各々、声を掛け合い……そして、泣き出した。
――何が始まるというのだ?
泣きじゃくりながら、女官たちは別れの言葉を贈りあい、次々と小屋を出ていく。
そして、理解できない少年の体に、背後から手が回った。
いつもあやしてくれる御婆の手だ。だが、今日は何かが違う。顔を向けると、いつも微笑み返す御婆の顔色は変わることがない。
少年を抱えて御婆は立ち上がると、小屋から外に出て行った。
「わたしをどこに連れて行こうというのです?」
少年の問いかけに、「都でございます」と、御婆は答えた。
揺れる船の上、御婆の見る先にあるのは塩水だ。
「都は日の昇るほうではないのか?」
少年は源氏の船の方を指した。
「海の底にも都があります。そちらに向かうのですよ」
「そのようなところに、都は……イタい!」
グッと御婆に抱きしめられた。
「おはば、離して」
いつもならすぐに力を緩めてくれるはずなのに、離してくれない。
それに先程、小屋を出た女官たちが次々と海に飛び込むのが目に入る。
「行きますよ、都へ――」
御婆は船の縁に腰をかけると、少年を抱えたまま背中から海へ飛び込んだ。
幼い少年は暴れた。だが、御婆は離すまいとグッと腕に力を込める。
少年は暴れ続けたが、ふたりの衣服には一気に海水を吸い込み重くなる。そのまま海の中へと引きずり込まれていった。
幼い少年の体力では、服の重みに、御婆の腕の力に負けてしまった。
鼻から、口から、空気が抜けていく。
――苦しい!
最後の力を絞り出し、御婆の腕からなんとか抜け出せた。だが、それまでだった。
衣服が海水を吸い込み、非道く重い。見上げれば光る海面が見えるが、腕を数度動かしたところで、力が無くなってしまった。
目がかすみ、意識が遠くなり、幼い少年はそのまま海の底へと導かれていった。
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