噂話

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噂話

 1872年(明治5年)―― 「おい、聞いたか?」 「ああ、聞いた」  山彦(やまひこ)少年は、船上でヒソヒソと話している大人達の話が気になって仕方がなかった。  ――何を聞いたというのだ?  少年は、数え歳で14になろうとしている。  村の漁船に乗り込み、一人前の漁師となろうとして、数年経っていた。  すでに海の上で照りつける日の光で、皮膚は褐色に輝いている。腕っ節も同年齢よりはたくましいであろう。だが、今は、食事係兼雑用係としてしか扱われていない。よっぽど(あみ)が重いときなどは手伝いをさせられるが、それ以外は邪魔だと殴られてばかりだ。 「海彦! 何サボっているんだ!!」 「爺様、オラは山彦だ。弟と違う」 「やかましい!」  と、山彦少年は食事係の爺様に、汁物をかき混ぜるお玉で殴られた。  食事係とはいっても、実際に米を炊くわけではない。飯自体は村から出港時に、握り飯として積み込んでいる。だが、冷たい海風にさらされているところに、冷えた握り飯では辛いと、汁物だけは船の中で作っていた。火を使うのは危ないが、少しでも体を温めるため、漁師たちが休めるためには仕方がないことだ。  そのために船の甲板上に小さな掘っ建て小屋を、火事場にしていた。ここが今の山彦少年の持ち場である。もっとも、山彦少年を殴った老人は、少々ぼけている。  温かい汁物を作ってくれるはいいが、船に火を付けないためにも、山彦少年が見張りをすることになった。  隙間風と一緒に、再び大人たちの噂話が聞こえてくる。 「1(ちょう)――約109メートル――もあるサメが出るそうだ」  その間に、ひとりの漁師が呟くようにいった。  ――1町もあるサメだって!? そんなものが存在するのだろうか?  山彦少年は大人たちの話に、半信半疑で耳を傾けていた。 「ひょっとしたら、西洋人の怪しげな機械か!?」  ひとりの男の発言に、少年はそれなら納得がいくと、頷いた。  物心ついたときから、沖合に蒸気船(黒船)が往来するのを見てきた彼にしてみたら「西洋人はまだ得体の知れないものを持っている」と思ってしまう。  風にもオール()にも頼らずに、前後に動く船を持っているのだ。海の潜る船を隠し持っているのではないかと――  ――その所為で村の沖から魚が逃げたのか?  厄介なことであった。村の沖に煙を吐く黒船の往来が激しくなった事により、魚が中々捕れ無くなっていたのだ。少し前なら、日帰りですむところで漁をしていたと聞いていた。もし西洋人の仕業なら、水中を潜る船に驚き、魚が怯えて沖へと逃げていったのかもしれない。  そのために村は金を工面して、使い古されているが大型船を手に入れた。帆もあり、甲板の下には数名が櫂で漕げるようにもなっている。村人の半分の男手が必要だったが、いつもよりも更に沖へ行くためだ。だが、長距離移動は腹がへる。そのために途中で食事が出来るようにと、食事係を乗せている訳だ。 「おい、そろそろ網を入れるぞ!」  どうやら魚群を見つけたようだ。  船の舳先に立って海を見回していた男が声を上げている。  海のほうを見ると、確かに黒っぽい何かの影が見えた。 「あっちだ!」  舳先の男が指さしたほうへ、船を操る。だが、ここでふと男は疑問に思ったことがあった。  ――なんで近づいてくる?  魚群ならば、船が近づけば逃げるそぶりを見せる。それを追いかけるのが、一苦労なのだが、見つけた陰はこちらに近づいてきた。  そして、その陰が目当てとする魚群でないことを分かった。 「なん……」  ほぼ声を上げる間もなく、舳先の男が消えた。  指示に従っていた舵を取る人間も、何が起きたのか、すぐに理解できなかった。海から突然、巨大な大蛇(だいじゃ)のようなものが飛び出すと、舳先の男を海にたたき落としたのだ。  海中から大蛇が出るなど、その様子を見ていた他の漁師も理解できなかった。  唖然としている間に同様のものが、何本も海面から現れて、漁船の船首に絡みついてくる。  そこでようやく、大蛇のようなものが自分達の記憶にあるものに合致した。  タコの足。だが、うねうねと動くタコの足の太さは、大人の胴体ほどもある。その先端は鞭のようにピューと高速でしなった。  船に絡みついた足は先端を鞭のようにしならせ、甲板上の大人達を襲った。  ある者は首を吹き飛ばされ、ある者は胴体を真っ二つにされ息絶える。甲板上にいた者は、そうして息絶えていった。 「じっ、爺様!?」  唯一、生き残ったのは食事用の部屋にいた山彦少年と爺様だけだ。  次々と殺されていく大人達を見て、小便を垂れ流し、腰を抜かしながら部屋の隅になんとか逃げ込んだ。 「なんじゃあ?」  外の物音に食事係の爺様が、ようやく部屋の外に顔を出した。だが、そこにタコの足が襲いかかった。 「ダメじゃ!」  山彦少年の声が遅かった。首を出した爺様は倒れ込む。首をなくして―― 「おい、何があった?」  船の中、櫂を漕いでいた男のひとりが、異変に気が付いたのであろう。甲板上に登ってきた。だが、首を出した途端、この男もそのタコの足の餌食になって息絶えた。  船内で外のことがよく分からない漕ぎ手達は、パニック(混乱)を起こしていた。甲板に上がる階段から、首なしの男が落ちてきたのだから。  外を確認しようにも、櫂を動かす隙間しかない。巨大なタコのような足。それに首なしになった仲間の死体が、転がっているだけだ。  何かに襲われている……それだけは分かった。しばらくすると、冷静になってきたが、ギシギシと船体を締め上げる音が聞こえはじめる。その中である者は、武器を手にした。  武器といっても、縄を叩き切る斧が数本あるのみだ。  それでも勇気のある者は、斧を手に船体を締め上げるバケモノに対当しようと考えた。しかし、唯一の入り口に顔を出せば、仲間と同じく首なしになる。とは言っても、大枚を叩いて買い込んだ漁船は、このままでは砕けるのは目に見えていた。  漕ぎ手達は、なんとか船体に最小限の穴を開けると、絡みつくタコの足に斧を振り下ろした。 「なんなんだ、これは!?」  だが、柔らかく見えたその足は強靱でありヌメヌメした皮膚には、斧の攻撃などビクともしなかった。  その間に、自分達が開けた穴から1本の足が入り込んできた。  甲板上で起きた惨劇は、船内でも繰り広げられることとなった。  山彦少年は、  ――どうなったんだ?  船の中で唯一生き残っていることに、気が付かなかっ……いや、気が付けるはずがない。小さな食事部屋の隅で小さくなっているだけだ。そして、外の様子といえば、壁板が痩せ細り、僅かな隙間から覗けるのみ。  確認できるのは、巨大なタコの足が村の大切な船を潰そうとしているところだ。  ――このままでは死んじまう。  部屋を飛び出し、海に飛び込むか。  そう考えたが、爺様が顔を出して息絶えたことを考えると、上手くいはずがない。  そうこうしているうちに船は、タコの足の力に負けた。バキバキと音を上げながら、崩れはじめる。山彦少年のいる部屋も、その勢いで床が垂直に立ち上がった。 「ぎゃあ!!」  丁度、汁物を爺様が作っていた。その鉄鍋と中身、それに火が山彦少年に降りそそぐ。  そして、船体もろとも部屋は破壊された。火傷による激痛。それに海へと転がり落ちるときに、船体のどこかの柱に頭を打ち付けた。  山彦少年の意識がかすれていく瞬間、船の舳先があったあたりに、巨大な海坊主を確かに見た。
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