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姫様
源内師範に連れられて山彦少年は、階段を上がり最上甲板へ上がっていった。
目的の場所は、蓑亀号で外見を見た時の艦橋の後ろ。木張り甲板のところだ。
階段を上ろうと見上げれば、すでに誰かが甲板上に上がっているようで、二重の気密扉が開かれている。
――あの魚人族の潜水艦と何か関係があるのかな?
食堂の窓から見えた、エビともカニともとれる妙な形をした船が見られると思っていた。
源内師範の興味はそちらであろう。まあ自分が乗っている『和邇』号も、山彦少年は実際の姿を見たことはないが。
ともかく、数日ぶりの外だ。流れてくる空気から違う。慣れ親しんだ海水の混じった重たい空気だ。
源内師範が先に外に出る。続けて、山彦少年が出た。その時、艦長の声が聞こえてくる。
「平賀殿、どうされた?」
山彦少年は目がくらんだ。実をいうと艦内よりも、外のほうが曇天で薄暗く、目が一瞬なれなかったのだ。
「何? トキヒト、また猿人を増やしたの?」
聞きなれない女性の声がした。
目が慣れてくると、甲板の横に蓑亀号が横付けされていた。そして、艦長とこの和邇号の乗組員が数人いることが分かった。そのほかに明らかに浮いている姿の人影がある。
そちらは3人。赤と青の派手な着物を着た大人の女性らしきふたりに、その前に小柄な竜の民がひとりいた。
後ろのふたりは竜の民のお付きだろうか。ひとりは黒髪の人間で、もうひとりは濃い灰色の竜の民だ。
そして声を上げたのは、淡い桜色の着物を着た竜の民だ。明るい茶色の産毛に覆われている。目は相変わらず人よりも一回りは大きく口も大きいが、可愛らしい感じのする若い竜の民のようである。
ただ、山彦の顔を見るなり、険しい感情を出し始めた。とっさに艦長が、
「彼は救難された者で、怪我を負っていたために治療していたのですよ。フタヒメ様」
「じゃあ、とっとと陸に返しなさい!」
「残念ですが、貴女様のお迎えのために、彼を送り届ける時間がありませんでした」
その言葉に、フタヒメと言われた竜の民は、艦長に突っかかり始めた。
「わたくしの所為だと仰るの!?」
「そのようなことはございません。しかし……」
「何よ!」
竜の民の表情は読みにくいが、フタヒメは艦長に何故か腹を立てているようだ。
その時だった。ピューっと、警告を発する音が響いた。
『――警報ッ! 何かが上がってきます!』
外部スピーカーから、悲鳴じみた放送が流れる。それが終わるかどうか……突如として、艦体右側の海面が膨れ上がるかと思うと、巨大な塊が飛び上がってきた。
――たっ、タコ!?
山彦少年が見たのは、巨大な丸い塊、その後に何本もの長い脚が絡み合っていた。
それが和邇号の鼻先を飛びこえ、左側の海面に潜り込む。
その衝撃で、和邇号の艦体が右へ左へと揺さぶられた。
その場にいたほとんどの隊員たちは、とっさに甲板の手すりに掴まり、滑り落ちることはなかった。だが、山彦少年は運悪く、海に投げ出されてしまった。いや、それだけではない。
「きゃあッ!」
あの高飛車のフタヒメという竜の民も一緒に、海に落ちてしまったのだ。
巨大タコ……怪異の突然の出現に、海は非道く荒れている。
和邇号も巨大なその艦体を揺さぶられて、動きが取れないのだろうか。その場で留まっているのが精一杯といった感じだ。
山彦はさすがに漁師の端くれだ。身の丈もある波を何度も被りながらも、なんとか海面に留まろうと必死に泳いだ。
――あの子は……
波が落ちつくにつれ、山彦は周りを見渡した。
確か一緒に海に投げ出された少女の姿がない。海面に顔を出しているのであれば、体の色や着物の色で判るはずだ。だが、見えるのは和邇号の艦体のみ。上甲板でしがみ付いていたものが、艦内に逃げ込もうとしている。やはり、『フタヒメ』という少女は海に落ちたのであろう。お付きのふたりが必死に海に向かって叫び声を上げているのが見えた。
――海の中か!?
とっさに海に潜る。
海は透き通っているが、さすがに外洋だ。海底など見えない。ただ、深くドス黒い海水が足下に拡がっているだけだ。海面の方……左右を見渡しても、巨大な葉巻状の和邇号の艦体が邪魔をして、他には何もないように思える。
息が続くまで、海の中を見渡した。が、着替えの時に渡された靴やらが、脚の動きを邪魔して上手く泳げないでいる。
――やはり、いない……あッ!
息継ぎをしようと海面に上がろうとしたところで、和邇号の向こう側に何かが見えた。だが、息が続かない。そのため一旦、息継ぎのするために山彦は浮き上がった。
少年は確信したが、かなり遠くだ。ほぼ点にしか見えなかったが、確かにあの竜の民の少女だ。だが泳ぐにしても、あまりにも遠いように思えた。
――いた! 間に合うか!? でもそんなこと……
考えているヒマはないと、海水で重くなった靴を脱ぎ捨て裸足になる。大きく息を吸い込み、海水を思いっきり蹴りながら突き進む。腕の力だけよりも、遥かに早く――
しかし、中々、近づけない。
実は、息を続かせるために肺に貯めた空気が、浮き袋となって少年の体を海面へと押し上げていたのだ。少しずつ空気を吐き出さなければ、届かないであろう。いくら漁師だからといっても、少年はそういった経験を積んでいない。
そのために、暗い海底へと墜ちていく少女には手が届かず、遥か海面でもがくしかない。
――なんで届かない……。
もがいている間に、偶然にも口から空気が大量に吹き出してしまった。その途端、体が沈み始める。再び海水をかき、一直線に彼女の元へと向かった。
しかし、それは自殺行為に等しかった。
体内の酸素が無くなり始め、脳が悲鳴に耐えかねて脳内麻薬で自分の体の危機を感じないようにしていた。それでも、少年は目の前にいる初めてあったばかりの、『フタヒメ』と呼ばれた少女の手まで届いていた。
すでに視界が暗くなり始めていた。
そして、少年が覚えているのは、信じられないことに、横から現れた海面であった――
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