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だれもいないベンチの横に手袋が落ちた。鮮やかな赤色が夕暮れのなかに散った。屋根をかわして入ってくる雪がその上にちょこんと乗って、手袋はこの景色の中に嵌めこまれていく。その持ち主が落としたことに気付いて、湿っぽくなった手袋を拾い上げると、お母さんの方へと小走りに戻っていった。
「もう。気をつけなさい……おばあちゃんがくれた、大切なものでしょう」
息継ぎの合間に白い息が上った。女の子は手袋をはめると、地団駄を踏んで「ごめんなさーい」と、ホームの端にまで聞こえそうな間延びした声を奏でた。
お母さんはため息をひとつ吐いて、電車が半分だけ顔を出している山裾の車庫の方へと視線を向けた。これから出発するのか、眠りについてしまうのかは分からないけれど、動くことを物憂く思っているのであろうことは感じられて、同情に似たようなものを覚えた。
張りつめた冷気を裂くように電車が迫ってくると、ぶわっと風が吹いて、女の子は「さーむーい」とバタバタと手を振り身体を震わせた。なにかの拍子に女の子がホームから落ちてしまわないように、お母さんはその肩に手をかけて、一歩、二歩と後ろへ下がった。
これに似たような光景を自分も経験したことがあったと思う。記憶の織物の上を歩んでその手ざわりを探してみると、それは夏のことだったと思いだす。おそらく小学生になる前のころだ。近くの山から蝉が耳をつんざくくらいに鳴く、夏真っ盛りの、雨はもう二度と降らないのではないかと思うほどに、恐ろしいほどに晴れわたる日だった。
それでも、母さんの手はどこか冷たくて、ぼくとは違って汗一つかいていなかったと思う。母さんは、走り回るぼくの手をぐいっとつかんだけれど、それはするりと解かれてしまった。母さんの手からあっさりと抜け出してしまった腕の感触は、ぼくに後ろめたさのようなものを抱かせて、寂しくて悲しい気持ちが、鳥が羽ばたくときのように、バサッと音を立てた。
母さんの普段とは違う「ダメだよ」という厳しい声に、戸惑ってしまって、ぼくは、誰もいないホームで蝉の音を裂くようにわんわんと鳴いた。抱きしめてもくれなかった。両膝をついて腕で目を圧さえて、のどがからからになるまで喚いていると、背中越しに電車がやってくるのが分かった。
泣きやまないとと思いながらも止めどなく涙があふれてきて……そして、どうしただろう。覚えているのは、母さんがバッグを右から左の肩へとかけなおしたことくらいだ。ぼくは、どんな顔をして電車に乗り込んでいただろうか。泣いていただろうか。それとも、意地でも泣きやんでいただろうか。
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