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袖のともがら
「蓮木君」
立会人に小声で呼びかけられて視線の方向を追うと、名人が入室してくるところだった。
「おはようございます」
あわてて挨拶をして時計を見ると、8:40と表示されている。
和服姿の名人が上座に座り、巾着から懐中時計や扇子を取り出し始める。
一通り身の回りを整えた後、将棋盤に手を伸ばした。
少しだけ手前に引き寄せたかと思えば、また元の位置に戻す。
首を傾けて覗き込むようにすると、今度はわずかに左に動かした。
名人のこの種の癖については、事前にまわりの人から聞いていた。
棋士の中でも特殊と言えるほど神経質な彼の、いくつかのルーティーンのひとつだ。
「私は将棋が嫌いでね。全然私の思い通りにならないものだから、ストレスが溜まる」
「せめて盤の位置とか座布団の色くらいはね、自分の味方でいて欲しい」
五十代になって初めて名人の座に就いた彼の言葉は、世間的には温かく迎えられた。
無論、棋士の間でその言葉は、彼の名人位が仮初のものであるという共通認識をより強固なものにすることになったのだが。
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