袖のともがら

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くたびれたスーツを着た彼は、黙って俯いている。 「こんなところで何してんだよ」 言葉を選んだ末にドラマのようなセリフを発した僕に向けられた彼の目は、助けを求めるようだった。 「今日、対局だろ」 確か、都内郊外にある旅館で9時からのはずだ。 柴は黙ったままだった。 僕が次にかける言葉を模索している時、彼は突然口を開いた。 「呼び鈴が……」 「旅館の呼び鈴が、押しても鳴らなくて。誰も出てこないから、だから」 彼の様子は、喋り方こそ淡々としているが錯乱していると言ってもよかった。 子供の頃から目指してきた「名人」という称号。 畏敬の念と勝利への確信が彼の枷となり、牢獄となっている。 その精神的幽閉から解放されない限り、彼が将棋を指すことはできないだろう。 「勝つのが怖い」 棋士がそんなことを言えるはずがない。 自分の気持ちを必死に否定した結果が、今の彼の姿なのだ。 そんな彼の強がりを嘘だと指摘することは、何の意味もない。 そこから、僕は自分の決意を固めるための時間を空けた後、努めて明るい声で言った。 「小学生の頃、僕と指してたのを覚えてるか?」 柴が顔を上げて僕と目を合わせる。
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