袖のともがら

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僕は、そんな彼と仲良くなるために駒の動きを覚えた。 彼とできるだけ長く一緒にいたくて、戦術を覚えた。 今まで封印していた記憶が頭の中をぐるぐると駆け巡る中、ニュース番組で名人戦の映像が目に飛び込んできた。 初手、9六歩。 彼が『僕の一手』を指す様子を確認した後、僕は恐怖と充実感に体をしばらく震わせていた。 *** 「おはようございます。柴さん」 背後から声を掛けられたのは、庭の池を泳ぐ鯉をぼんやりと眺めていたときである。 振り返ると、立っていたのは蓮木八段だった。 「おはよう。ずいぶん早起きだね」 名人戦第一局の開始時刻の午前9時までは、まだ二時間ほどある。 「君も鯉の餌やりかい?」 「柴さんと話がしたいんです」 私の軽口にも、彼の表情は神妙なままだった。 「へえ。盤外戦とは」 私は彼から目線を外し、池の方に向き直る。 「らしくないね」 「今日の対局、初手の端歩突きをやめてもらいたい」 彼の言葉に被せるように、一匹の鯉が跳ねて水音が庭園に響いた。 辺りが静寂に戻るのを待ってから、私は口を開く。 「怖いのかい?」 「名人戦を十二連覇した私の端歩が」 私はわざと芝居がかった口調で話した。
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