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俺とあいつの始まりの日
3日続いた雨が上がって澄み渡る4月初頭の青空の下に立ちつつも俺はひとり、心中に降る雨に溺れかける自分を持て余してブレザーの襟を握り締めていた。
見上げる空は遠く冷たく、校舎の屋上にいてさえ海底に佇立している気分を強いられる。
「本番行きまーす」
高くも低くもない男の声がして、人々の視線とカメラがこちらを捉えた瞬間に、俺は俳優である己の立場と仕事を思い出す。
――俺は15のガキだけど。
周囲の大人にとっては人生と生活をかけたこれは仕事だが、自分にしかできぬ役割を与えられている時点で俺も逃げられぬ柵に足首を掴まれていることに違いはなかった。
――たかがワンクール。
60まで延々働かなければならない勤め人に比べれば、楽勝のはず……。
『ねぇ、好き。俺と付き合って』
……なのに、目の前の少女への告白は無様に掠れた。
「カット! あーもぅっ、全然駄目駄目!」
下平さーん! と、この場でいちばん偉そうな壮齢の男が俺に怒鳴った勢いのまま、マネージャーを呼びつける。
役者の不調は役者本人のものであってマネージャーの責任ではないというのは俺だけの持論で、15の子どもの管理は会社の役目と考える男には通じない。
気にしないで、と目で言いながら足早にすれ違ってゆく下平モネは、俺のマネージャーをしているのが勿体ないほどのハーフの美女だ。毅然としたその背を視線で追った自分の目が、去ってゆく彼女と反対に歩み寄ってこようとするひとりの少年の姿を映した。
すらりとした体躯に栗色の髪。物怖じしない瞳でまっすぐにこちらを見つめてくるのは同年代の人物だが、見知らぬ相手だ。
どこかの事務所の新人だろうかと考えているうちに、規則的な足音は俺の目の前で止まっていた。
「30分の休憩だって、あの人が」
名乗るよりも先にぴんと立てた親指で背後の偉そうな男を指さして彼が苦笑するのを、俺は呆然と眺める。
「大丈夫。晃耶さんがいるから、きみのマネさんは酷く叱られたりはしないよ」
「晃耶、さん?」
初対面の少年が口にしたのは、俺のよく知る男性の名だ。
振り向く彼の動作につられて目を向ければ、確かにモネと男のそばには桜河晃耶の姿があった。
幅広い年齢層に支持され、イケメンの称号を欲しいままにしている28歳の彼は事務所の先輩であり、今作でも共演している俳優だ。
端正な容姿に見合った実力を持ち、方々の大御所俳優や監督、演出家らにかわいがられている人物である。
「ていうか、誰」
「俺は晃耶さん家のお隣さん」
当然の疑問を放った俺に、しかし、あっさりと返ったのは謎の答えだ。
「お隣って」
「晃耶さんの自宅の、隣家の息子」
つまり彼は、芸能人ではないということか。
座らない? と、会話の流れも気にせずに方向転換した彼の指が、今度は屋上の隅を示した。
「あ、それ衣装か。汚したら拙いね」
フェンスのそばへと進みながら俺の纏うグレーの制服を一瞥し、落とされた言葉は独り言だろうか。彼はライトベージュのダッフルコートから腕を抜くと1秒も迷わず足元へと広げて俺を手招きし、自分はコンクリートの床に直接胡坐を組んでしまった。
モテそうだなぁ、と思惟しながら俺はコートを辞退すべきか否かと少々迷い、仕事を思えば仕方がないと決心して敷かれた布の端にお邪魔した。
「俺は倉橋朔夜。高坂君のことはいつもテレビで観ているから初対面の気がしないけど、一応、初めまして」
「初めまして、高坂祥平です……じゃなくて。なんで晃耶さんのお隣さんがここに」
「んー? 誘われた、いや、頼まれた?」
複雑な声を聞かせる倉橋の理知的なまなざしが向いたのは、高圧的な男に解放されてモネと談笑している晃耶さんの方向だ。
「僕の仕事を見に来てほしいな? だよ。しかも昨日。晃耶さんがお願い口調で甘く言うときには、もう決定事項なんだよね」
「そうそう。でも今日、晃耶さんの出番はないはずだけど」
話に乗りかけ、俺はふと撮影スケジュールを思い出した。この屋上の告白シーンに必要なのは生徒役の俺と女優だけで、教師役の大人は要らない。
「……やっぱりかぁ」
額に手を当てて呟く倉橋も、なぜだか苦い表情をする。
「つまり?」
問いかける俺にも半分くらい答えが判った。
「きみに会わせたかったんだと思う、俺を」
「なんで」
訊きたいのは、残りの半分だ。
「晃耶さんはああ見えて父親だから、泣きそうな子どもを放っておけないんじゃない?」
「子どもって」
「晃耶さんの息子は5歳。俺の弟と一緒」
「……俺は15なんだけど」
園児扱いとは失礼な、と言いかけて、けれど台詞ひとつ満足に言えない我が身を顧みれば、そう思われても文句は言えぬと痛いほどに実感させられる。
「倉橋クンは歳、いくつ」
「中学出たての15歳」
「同じじゃん……いや、違うか」
親しくしている隣家の主人に招かれたとはいえ、ここは倉橋には馴染みのないドラマの撮影現場だ。しかも主演の俺はミスだらけで共演者とスタッフを苛立たせ、緊迫した空気が漂っている。それなのに、泰然と座って初対面の俺と友人のように普通に話せる彼は相当な大物だ。
「晃耶さんは倉橋クンに俺を慰めさせたくて連れてきたんだろ。全然、対等じゃない」
寧ろ、ちょっとムカつくというか余計な世話だと言ってしまいたい。拗ねた気分でそう思惟した直後、俺の隣で倉橋が僅かに笑った。
「俺はきみを慰めも励ましもしないけど?」
「え?」
「繰り返すけど晃耶さんが俺に言ったのは、僕の仕事を見に来てほしいな? だ。俺はこの光景を静観していればいいんじゃない?」
「達観してるな」
「別に。頼まれたことをしているだけで、俺に出来ることなどタカが知れているし。きみの事情も知らずに的外れなことを言っても仕方がないし」
飄々と言って、倉橋は空に向かって伸びをした。変な奴だと片づけてしまえばいいものを、俺の目はしげしげと観察してしまう。
かっこいい、と素直に思った瞬間、どくっと鼓動が高鳴った。
「この仕事、本当にやりたかったのは俺じゃなくてさ」
無意識に己の口から零れた言葉に俺は内心で酷く驚いて、もう取り戻せぬものが身の内にあるのだと否応なく自覚させられて困った。
「ドラマ?」
「じゃなくて、俳優」
初対面の相手にこんな打ち明け話をする自分はどうかしている。でも、だからこそという気もしなくはない。互いに何も知らない者同士、長い人生のほんの一瞬だけをともにしてすぐに離れる。もう二度と会うことはないかもしれない倉橋になら言ってもいいかと刹那、思った。
「よくある話だろ。頼まれてオーディションに付き合っただけの奴が、本気で受けた奴を追い越して選ばれちまうって」
倉橋は無言だ。左の膝に頬杖をついて、ゆっくりと一度、まばたきをした。
「祥平なら出来る、高みを目指せって、あいつは笑った。本当は自分の夢だったはずなのに」
潰えたそれを俺に託し、全力で応援して、生来の病で逝ってしまったのは半年前だ。
「親友だった。だけど、この世のどこを探してもあいつはもういない。頑張れという声も聞こえてこない。俺がここに立つ意味も必要も全然ない……っ」
見上げる空は遠く冷たく、校舎の屋上にいてさえ俺はただひとり溺れそうな気持ちを抱えて海底に佇立している。
「いいだろ、頑張れば」
ぽつんと、隣で声が聞こえた。倉橋だ。
掌と緩く曲げた五指で頬を支えた姿勢のまま、俺へと向かない双眸は蒼穹を眺めている。
「……っ」
いい加減に聞き流されたのかと一瞬、腹の底が怒りに煮えた。が、凜とした横顔はとても綺麗で、真率な佇まいに俺の逆立つ気持ちは不思議と鎮められてゆく。
「きみの努力は心ある人々に見守られ、正しく評価されてどこかの誰かに何かが伝わる。それは俺にはない力で、高坂祥平だけの素晴らしい持ち物だ。それを見抜いてくれた親友の存在も、俺にはとても羨ましい」
「……俺だけ、の」
あぁ、と息をつき、倉橋の瞳がようやく俺を捉えた。栗色のそれは陽射しを受けて金色に輝き、鮮烈な光を放って脆弱な俺を射抜きに来る。
――見て、祥平。駅前で貰ったオーディションのチラシ。グランプリ受賞者はレッスン終了後にドラマで主演デビューだって!
――凄いよ、祥平! 優勝だっ。
――祥平がテレビに映ったら、入院中も会えてる気がする。治療も頑張れる。
あいつはいつも前向きに笑っていた。
祥平は。祥平の。祥平に。
そして、いつでも俺のことばかりを話していた。
「確かに今、あいつが繋いでくれた道に俺は立ってる……」
「延長線上には俺もいる。怖れずに行けばいい」
迷わぬ声音で告げる倉橋の掌が、寸分の躊躇いもなく俺の髪を抱く。引き寄せられた肩に頭を預けたら、甘く優しい香りが鼻腔に触れた。
「……慰めないんじゃ……ないのかよ」
「俺は感じたことを素直に言っただけだ」
「……ぅ……くっ……」
淡々と嘘をついて、けれどそれきり何も言わず、倉橋は落涙する俺に肩を貸してくれていた。
俺の何かがいつか、この清廉な彼にも伝わるだろうか。
ゆく道の先にこいつがいるなら、俺は時折転びながらもまだまだ歩いていけそうだ。
そう思いながら上げた目に、こちらへ手を振るモネが映った。
どうやら休憩時間は終わりらしい。
「祥平ー、始めるよー」
モネも晃耶さんから倉橋のことを聞いているのか、ふたりは距離を挟んで会釈をし合っている。俺は拾い上げたコートの汚れを払い、持ち主の胸に押し当てた。
「見てて」
「あぁ」
交わす言葉は短いけれど、それで全てが通じるだろうと確信できた。
雑多な機材と大人たちの冷徹な視線の前に身を晒し、俺は毅然と背すじを伸ばす。
見ていろ。
遥かな空から。同じ地表から。
俺が、高坂祥平だ。
『ねぇ、好き。俺と付き合って』
吐き出す言葉は陳腐極まりないけれど、求められているのならば完璧に華麗に応じてみせる。
それが俺の生きる意味だと知ったから。
「カット! オーケー!」
偉そうな男の罵詈雑言もたった一言の台詞で賛辞に変えて、俺はこの道を進んでいく。
偽物の恋を真に受けた女優が両手で顔を覆って座り込んだ向こう側、見えるものは晃耶さんとモネの満面の笑み。
そして、握った右手の親指をまっすぐに立てる倉橋の気障な微笑。
何度も躓き、傷つきながらゆく道も、その先に彼がいるのならば悪くはない。
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