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「桝野さんのことですよね?」東堂はすぐにそう言った。「桝野さんからは以前から辞めたいと相談がありました。けどずっと長く一緒にやってきていましたし、評判もよかったですからこちらが引き留めていたんです。それが昨晩急に電話で明日からもう行けないって。そんな大切なことを電話で言うタイプでもなかったので、何か厄介ごとに巻き込まれたのではないかと思って心配してました。まさかとは思いますが」 「大丈夫です。彼は元気ですよ」滝本はそう答えた。 「長くってどれくらいからここで?」箕島は堪らなくなって口を開いた。 「実は三年前にこちらに拠点を移したんです。それまでは京都に本社がありました。この塾はもともと京都で始めたんです。それから東京に進出して。で、結局こちらに落ち着きました。桝野さんとは京都時代の草創期から働いてもらってます」  その話を詳しくと滝本が伝えると、東堂は椅子にかけるよう勧めた。座ることすら忘れていた。箕島は自分がいつもより焦ってるのかもしれないと自覚した。 「桝野さんは大学時代にバイトで講師をしてもらったのが最初です。それから就職で一旦契約は終了しました。それから三、四年してからでしょうか、道でばったり会いまして。どうやら会社を辞めて、お母様の介護をされていると。それで日雇いの仕事をやっていました。お母様の体調が悪いと休まないと行けないとかで決まったバイトは選べないっていうんで、だったらウチに戻って来ればって誘ったんです。その頃はまだ勉強について行けない子どもの個別授業もやってましたから。それに桝野さんが休みの時は私か兄のどちらかが代わりに入れましたし」  母親の介護で会社を辞めていた。箕島はメモの書く手が止まった。桝野は箕島の実家の近所に住んでいた。いつの間に一緒に住んだのだろうか。 「それで母親はいま?」滝本は母親の所在を確認した。 「こちらに拠点を移す話が出た頃に亡くなりました。それで私たちと一緒に来てくれたんです」 「母親の介護ってどこか悪かったんですか?」  箕島の問いに東堂は口ごもった。「それは必要なことでしょうか?」 「ええ」間髪入れずに滝本は答えた。箕島は単純に驚いて尋ねてしまったのだが、滝本はそうではなかったようだ。 「桝野さんの大学時代にどうやらご両親が離婚されたようで、お母様は桝野さんと一緒に暮らすようになったそうです。ただ──いろいろあって精神的に弱っていた上に知り合いもいない土地でしょう? どうやら精神的に病んでしまったらしいんです。それがちょうど就職活動の時期でしたか。それから若年性のアルツハイマーになられたようで、目が離せなくなったと言ってました。最期は心筋梗塞で亡くなったと聞いています」 「桝野さんはこちらではどんな様子でした?」滝本は淡々と続けた。 「桝野さんはもとは横浜出身でしたよね。ちょっと違う雰囲気だけど懐かしいって言ってました。こっちのほうがのんびりしてて性に合ってるとも」 「では急に退職を希望されたと? なにか変わった様子はありませんでしたか?」  そうですねえ。東堂は少し考え込んだ。なにかを思い出そうとしてるようだった。
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