毒龍の住まう湖

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「ジェード! 良かった、意識戻った……!」  声が聞けただけで、セルリアは目頭が熱くなる。だが、ジェードの様子がおかしい。 「や、やめろ、僕は……」  顔を青ざめさせて、何かを恐れている。手を使い、何かを振り払おうとしている。  しかし、セルリアの視界には何も映らない。 「ジェード、どうしたの? 何もいないよ?」 「僕は、僕が、この状況を――うぐぅ!!」  突然、ジェードが頭を抱えて苦しみ出した。その反動で、かけていたセルリアの上着が落ちてしまう。 「ジェード!?」  ジェードの苦しみ方は、毒によるものではないようだった。まるで、内側から溢れ出すものに抗っているかのような―― 「っ、ジェードしっかりして!!」  ジェードにセルリアの声は届いていないようだった。ただ「出て来るな」と何度も言い、頭を抱えて悶える。その言葉で、ジェードが何に苦しんでいるか察してしまった。 「ジェード! 気をしっかり持って!!」  内なる龍が出てこないように、セルリアは必死で何度も呼びかける。やがて、ジェードの動きが止まった。そして、ゆっくりと瞼を開く。  長い前髪から覗く瞳は、赤ではなく金色だった。  ウミヘビを討伐した時は赤色だったのに、まるで毒龍と同じ金色の瞳。あれ程苦痛に顔を歪めていたというのに、今は恐ろしい程の無。  ジェードは無表情のまま、ゆっくりと上半身を起こした。コキリと首を鳴らし、右腕を回す。 「ウム……一度入れ替わった時よりもしっくり来るな」  声色は低く、普段のジェードからは無い威圧感がセルリアの額に冷や汗を滲ませた。 「貴方……ジェードじゃない……! ジェードの中にいる龍……!」 「随分と不躾な娘だな。だが、お前にはこの身体を救ってもらった恩もある。悪いようにはせんよ」  ジェードの中の龍——ヒスイは、くつくつと喉の奥で笑って立ち上がった。  彼の身長はセルリアよりもやや低いが、ヒスイは威圧感からか、自分よりもかなり大きく見えた。  キィン、と耳鳴りがした。全身の細胞が、この龍には逆らうなと警鐘を鳴らしているような感覚。  しかし、セルリアは全身から溢れ出す恐怖に蓋をし、ヒスイを睨む。顔はジェードなのに、口元を歪めて笑う表情が彼ではなかった。 「早くジェードの中から出て行ってよ!! その身体はジェードのものよ!!」 「戻ってやっても良いが、そうしたらこの男は毒によって死ぬぞ」 「え……!?」 「毒龍の毒は人間には解毒出来ん。だが、俺であればこの毒を分解する事が出来る。今戻ったら、その機会は失われる」  その情報は信じていいのだろうかと、判断が鈍る。嘘であると証明も出来ないし、仮に本当だった時、ジェードの命が無くなってしまう。 「——っ、本当に、ジェードを助けられるの……?」 「俺は嘘を吐かない。人間を欺いても無意味だからな」  ジェードの身体を支配するヒスイが恐ろしく、今すぐにでも出て行って欲しいが、彼を治せるのがこの龍しかいないのならば、藁にも縋る思いだ。  セルリアは悔しさを滲ませながら、ゆっくり頷いた。 「お願い、ジェードを助けて……」 「フ……欲深く素直な人間は嫌いじゃない」  そう言った直後、ヒスイの額から龍の角が生え、頬や手の甲に龍の鱗のようなものが生える。  その姿は、まさに龍人。黒ずんでいた皮膚は消え、彼の身体から毒が少しずつ消えていくのが視覚でも分かる。 「フム、解毒には少し時間がかかりそうだな。それまでどうしようか――」  直後、辺りに轟音が鳴り響き、何人もの悲鳴が聞こえた。毒龍が、島民達を攻撃しているようだ。  ヒスイは少し考える素振りをしてから、犬歯の目立つ歯を見せて笑った。 「そうだ。あの毒龍を殺してみようか。欲深い人間共の“後悔する”末路が見られるからな」 「え!? ちょっと待——」  セルリアの制止の途中で、ヒスイはその場で高く跳躍した。そして背中から蝙蝠のような翼が生え、何度か羽ばたかせる。  逃げ惑う島民の一人が、ヒスイが宙に浮いている事に気が付いた。 「おお! ウミヘビを倒した者が、毒龍を殺しに来てくれたぞ!!」 「ああ、有難い……! 早くこの龍を殺してくれ!!」  毒をまともに食らった島民の死体がいくつも転がる中で、生き延びている島民達は涙を流しながらヒスイに懇願する。  ヒスイは鼻を鳴らして嘲笑した。 「何も出来ない弱者が喚くな」  自分よりも上で飛んでいるヒスイに気付いた毒龍は、咆哮を上げてヒスイに襲い掛かる。  怒りで自我が消失しているようで、親交のあったヒスイだとは気づいていないようだった。 「はははっ! 人間に謀られ正気を失うとは、何とも哀れな龍よ!」  そんな毒龍をヒスイは嘲笑い、毒龍の突進を軽々と避けた。更に毒龍は、身体から黒い液体を出し、ヒスイに向かって放つ。 「お前の毒は以前食らった事があるから、簡単に毒を分解出来る。お前じゃ俺は殺せんよ」  毒を避けながら、ヒスイは親指と人差し指で輪を作って息を吹きかけると、炎が舞い上がった。  ジェードが脱獄の際に吐き出した炎よりもケタ違いの勢いにより、毒龍の身体は炎に包まれる。けたたましい悲鳴を上げて、毒龍の身体はマシロ湖へと落下した。  毒龍が落下した事により、毒に侵された湖が大波となり、島民達を襲う。また何人もの島民が犠牲になってしまった。  そして辺りに肉が焦げる臭いが充満する。大波から逃れていたセルリアは、鼻を摘まみながら空にいるヒスイを見上げる。  こんな事は、絶対にジェードが望んでいない展開だ。 「やめて!!」  セルリアは、必死の懇願をする。声が届いたようで、ヒスイはこちらを見下ろした。龍の角によって、長い前髪が上がり金色の瞳は露わになっている。彼は、ジェードのように穏やかに微笑んだ。  一瞬、ジェードが戻ったのかと思ってセルリアの表情が若干緩んだが、その思いは打ち砕かれた。  すぐに残忍な笑顔に戻ると、ヒスイは急降下し、マシロ湖の中でもだえ苦しむ毒龍の首を鋭い爪で切り裂いた。  赤黒い液体が勢いよく噴き出し、霧が赤く染まったように見えた。毒龍は声にならない呻き声を漏らし、首を湖の淵へゆっくりと倒した。  波紋の続くマシロ湖が、黒から赤に染まっていく。少しの間静寂が訪れたが、一番先に声を上げたのはオーキだった。 「おおお!! 毒龍を一撃で……!! 流石ウミヘビを倒した御方!!」  その声に遅れて、島民達が歓声を上げる。——毒で息絶えた者達の死を悼まず。  ヒスイは島民達が喜ぶ様を見下ろしながら、ニヤニヤと笑っていた。何が楽しいのかと、セルリアに怒りが湧き上がる。  ヒスイに対して怒りをぶつけようと大股で歩き出そうとした時——力無く咳き込む声が聞こえた。セルリアはハッとして、その声の方へと向かった。  咳き込む声の主は、毒龍だった。湖の淵に顔を力無く乗せている。 「毒龍さま!」  ヒスイに斬られた傷は深く、血は止まりそうもない。もう助からないのは明白だった。  誰も、毒龍を気に掛けない。島民達は涙を流して喜んでいる。  この悲劇は避けられるものだった。それなのに、手からすり抜けて落ちてしまった。セルリアは、何も出来なかった自分に腹が立った。  毒龍は、薄らと目を開いて近寄って来たセルリアに視線を送った。 「ああ、儂は死ぬのか……。やはり、人間は愚かだ……。目先の恐怖を取り除く、為に……未来の絶望に気付いていないのだから……」 「毒龍さま、ごめん……。貴方を助けられなかった……」 「お前のせいではない……。感情をコントロールできなかった儂が悪いのだ。お前はこの島の為に動いていてくれたというのに……こんな結果になって、すまなかった」  毒龍の口調は、初めに会った時のように穏やかだった。 「どうして、こんな結果になるの……。貴方は、ただこの島を愛していただけだったのに……」 「きっと、龍と人間は相容れない存在なのだ。共存は、不可能」 「そんな事、ない……!」  セルリアは大きく首を振って否定する。龍と人間が共存できないというのなら、セルリアとジェードは、一緒には生きられないという事になる。  涙が溢れる。あまりにも、悲しい結末。最初はこの毒龍を恐れたセルリアだったが、会話を何度かする内に、彼の根底にある優しさに気付いた。 「……どうして、儂の為に泣く。儂がいなくなれば、解決ではないか……」 「こんな結末望んでない! あたしは……毒龍さまもアイカも生きていて欲しかった……!」 「……そんな心を持つ者もいたのか……人間も、まだ捨てたものじゃないな……」  毒龍が何度も咳き込み吐血する。もう長くはない。セルリアの瞳から涙がいくつも零れ落ちる。 「お前“だけ”でも、儂を思ってくれた事……とても嬉しく思う……。儂が死んだら、早くここを……。……。」  毒龍の言葉は最後まで紡がれる事はなく、ゆっくりと目を閉じ、その生涯を終えた。 「……私、だけ……?」  毒龍の死を悼みながら、最期の彼の言葉が、妙に引っかかった。
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