第四章 前評判は往々にしてアテにならないもの…って、それにしたって違いすぎやしませんか!?

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第四章 前評判は往々にしてアテにならないもの…って、それにしたって違いすぎやしませんか!?

 ついに、聖女……改め、グラスフィールド男爵令嬢セイラが俺のもとに嫁いで来る。  嬉しい反面、俺には憂慮もある。婚約成立から今日まで、残念ながら俺はセイラ嬢と顔を合わせる機会を持つことができなかったのだ。  もちろん、俺とて結婚に先立ちグラスフィールド男爵邸に挨拶に行くつもりだった。しかし、カガール王国との戦後交渉が予想以上に長引いた。  そのため、すべての交渉を終えてやっとベイシェンス辺境伯領に戻ってこられたのが一昨日のこと。挨拶に行くことはおろか、セイラ嬢の輿入れ列に加わることすら叶わなかった。  迎え入れの準備は信頼する家令に一任したから、漏れがないことは分かっているのだが。  ……セイラ嬢に不実な男だと思われていなければいいな。  思わずため息が漏れた。  早馬で駆けてきた先触れによると、そのセイラ嬢たち一行は先ほど辺境伯領内に入ったという。  セイラ嬢との対面の瞬間が迫っていた。  俺は玄関先に立ち、落ち着かない思いで後ろを振り返り尋ねる。 「セバスチャン、おかしなところはないだろうか?」  普段は屋敷内にあってシャツとトラウザーズだけのラフな格好で過ごすことが多いが、今日はアスコットタイを付けフロックコートまで羽織って正装している。  少しでもセイラ嬢によい印象を持ってもらいたいがためだ。 「完璧な装いでございます」  黒のロングテールコートをしゃんと着込み、白髪を櫛目を通して撫でつけた我が家の敏腕家令セバスチャンが淡々と答えた。 「そうか。ああ、そうだ。彼女の部屋は不足なく整っているのだろうか」 「メイド頭のアンに指示し、完璧に整えてございます」 「そ、そうか。ああ、そういえば今夜の晩餐のワインはきちんと冷やされているか」 「旦那様、ご安心召されませ。ワインも料理も、すべて料理長がつつがなく用意しております」  俺の再三の質問に、普段通り落ち着き払った態度で応じるセバスチャンを前にして、幾分冷静さが舞い戻る。  俺が生まれた時から家令として我が家を取り仕切っているセバスチャンには、きっと俺の心の内などお見通しに違いない。 「すまない。どうやら俺は少々浮かれているようだ」  照れたように少し早口で弁解する俺に、セバスチャンは目尻の皺を深くした。 「私は嬉しゅうございます」 「突然どうした?」 「いえ、ついに旦那様も大切な方を見つけられたのだと。旦那様は婚約者も定めぬまま長くおひとりであられたので、大旦那様はもちろん私も陰ながら心配しておりました。待ちに待ったご結婚です、亡き大奥様もさぞお喜びでございましょう。本当にようございました」 「そうだな、常世の母上もきっと安心しているだろう。父上にもお前たちにも、ずいぶんと気を揉ませたな」  ちなみに、前線に立つ俺に代わって戦中の辺境伯領内を守り切った父は、やることはやったとばかりに気ままな一人旅に出かけていった。元来、自由気ままな性格の人で、俺に家督を譲ってからはよくあることだった。  とはいえ、今回ばかりは嫁の顔を見なくてよかったのか?と思わなくもない。だが、旅に飽きればそのうちに帰ってくるのだから、その時に会えばいいだろう。互いに束縛しないこのくらいの緩い関係が、俺も気楽で気に入っていた。 「ええ」  セバスチャンは在りし日を懐かしんでいるようで、その眼差しは柔らか──。 「……それにしても、あの悪戯好きできかん坊だった坊ちゃまが奥方様を娶られるというのは、なんとも感慨深いものですね。領民のご婦人のスカートを捲りこっぴどく叱られて泣き帰ってきたり、メイドたちのエプロンにカエルを仕込んだのがバレて大旦那様に納戸に閉じ込められたり、毎日手を変え品を変え屋敷内を賑わかしてくれたものです。ちなみに私などは制服に仕込まれたのが毒蜘蛛で、危うく死にかけるところでございましたが……いやはや、立派に成長なさいましたなぁ」  ──いや、しみじみと語るセバスチャンの目は物凄く生温い。 「セバスチャンよ、昔のことは謝る。だから、頼むからセイラの前で『坊ちゃま』とだけは呼んでくれるな」  ついでに、どうせらもっとましな『在りし日』を振り返ってくれと声を大にして言いたい。 「フッ。承知いたしました」  そうこうしているうちに前方から馬を駆る音が聞こえ、輿入れ列を先導する騎士たちの姿が見えてきた。やがて前後を騎士に守られたベイシェンス辺境伯の紋入りの馬車が正門をくぐる。  ああ、ついにセイラ嬢が……!  逸る心を抑え、停車した馬車に歩み寄る。御者が扉を開くや、車内に半身を乗り入れる勢いで覗き込んでしまう。  降車しようと腰を浮かせかけたセイラ嬢が、俺を見て目を瞠る。その表情がなんともいえず可愛らしく、冷静にならなければと思いつつも興奮は高まるばかり。 「セイラ嬢、よく来てくれた! 待っていたぞ!」  セイラ嬢はサクランボみたいに色づく唇を薄く開き、呆気にとられたようにパチパチと目を瞬かせる。つい声を大きくしてしまったから、驚かせてしまったのかもしれない。 「長旅でさぞ疲れていることだろう。まずは中で休まれるといい。さぁ、手を」  今度は意図して声のトーンを落とし、努めて穏やかに語りかけた。エスコートのために手を差し出すのも忘れない。  ところがセイラ嬢はなかなかその手を取ろうとせず、俺の顔と手を交互に見て困ったように首を傾げた。 「ええっと? 失礼ですがあなた様は……?」  なっ!? まさか俺のことを覚えていないのか!?  戸惑いがちにこぼされた彼女の第一声に、ガンッと頭を殴られたような衝撃を受ける。なんと彼女は俺のことが分からないようだった。  なぜ……いや、待てよ。  ひと呼吸置けば、彼女が分からないのも当然のことだと思い直す。  彼女から治癒を受けたあの時は戦中で、俺は髪も髭も伸び放題の上顔も体も血や土で汚れ切り、碌に人相も分からぬような有様だったのだ。彼女が俺を認識していないのは当たり前だ。  だが、そうなってくると彼女は結婚相手である俺のことを初対面の相手だと思っていることになる。突然降って湧いた結婚話を彼女はいったいどう捉えているのだろう?  脳裏を過ぎった疑問に、冷や汗が噴き出した。 「俺はライナス・ベイシェンスだ」  なんとか気を取り直し、緊張で乾いた喉にゴクリとひとつ唾をのみこんで名乗る。 「え!? だ、旦那様っ!?」  青空みたいな瞳がこぼれ落ちそうなくらい真ん丸に見開かれる。  凛とした聖女の姿とは違う、自然体の彼女に一層愛しい思いが募る。 「セイラ嬢。まずは初対面が今日になってしまい、本当にすまない。そしてグラスフィールド男爵家に挨拶に行けなかったことを詫びさせてくれ」  努めて冷静に、これを初対面と信じて疑わない彼女へ今できる最大限の礼を尽くす。  直角に腰を折った俺に、彼女は焦った様子だった。 「そんな、困ります。頭を上げてください」 「いや。言い訳になるが、カガール王国から帰国したのが一昨日だった。彼の国からでは魔報の座標が設定できない。一昨日の帰宅後も君は移動中だから同様に魔報は使えず……夫となる男が一度も顔を出さず不安にさせてしまったと思う。申し訳なかった」 「事情はよく分かりました。ですから、どうか頭を上げてください」  彼女は戸惑いながらも、俺の事情に理解を示してくれる。やはり心根の優しい人だ。  俺は頭を上げ、真っ直ぐに彼女を見つめた。 「もしかすると、君と俺の間に認識の相違があるのかもしれない。だが、この場でどうか伝えさせてくれ。この結婚は俺が望んだ」 「えっ?」  強引に結婚を取り付けた自覚はある。しかし、今も一片も後悔はしてない。  それを押しても、俺は彼女が欲しかった。手に入れたかったのだ。  だが始まりが歪だった分、ここから先は誠心誠意彼女に尽くそう。俺という人間を知ってもらい彼女からの信頼を得るのだ。彼女に夫として愛される未来を得んがために──! 「俺が君を妻にと望み、この結婚を陛下に願った」 「ぇえええ!?」  座席に仰け反るようにして驚きの声をあげる姿まで愛らしい。彼女の飾らない素直な表情は、苦しいほどに魅力的だ。 「勝手な真似をしてすまない。だが、誰よりも君を大切にする。この地に嫁いできたことを絶対に後悔させない。もちろん関係を急ぐつもりはないし、君の嫌がることは絶対にしないと誓おう。だからどうか、俺と夫婦としてやっていくことを前向きに考えてみてくれないか」 「……ええっと。正直いろいろ理解が追いつかない部分もあるのですが、縁あって夫婦になったのですし私もできるだけ歩み寄れるように頑張ります。もろもろ、ゆっくりペースでお手柔らかにお願いできたら嬉しいです」  差し出したままの俺の手におずおずと指先を重ねながらもたらされた彼女の回答は、俺を歓喜させるに十分だった。  温和で柔軟なその人柄に、惹かれないわけがない。彼女はますます俺を魅了してやまない。 「もちろんだ! 君のペースで進んでいこう!」  嫋やかな手をグッと握り、力強く答えながら、彼女はいったいどこまで俺を虜にしてしまうのか。嬉しくも、少しだけ恐ろしいなと思った。 ◇◇◇  ベイシェンス辺境伯領で初めていただく夕食の席。 「……あの、旦那様」  二十人はゆうに座れそうな長テーブル。その端っこの所謂お誕生日席に、ピッタリと寄り添うように並んで座る旦那様に呼び掛けた。 「どうしたセイラ嬢?」  旦那様は食事の手を止めて、新緑色の瞳をキラキラと輝かせながら私を見つめる。 「いえ。たいしたことではないのですが、夫婦になったのに『セイラ嬢』というのもなんだかヘンな気がして。よかったらこれから私のことは、セイラと呼んでください」 「うむ。今度からそうしよう……セイラ」  聞き慣れているはずの自分の名前。けれど旦那様が口にしたそれは驚くほど甘やかな響きで私の耳と心を擽る。トクンと脈が跳ねて、そのまま鼓動は普段より速足のまま戻らない。  私を見下ろす旦那様の顔が今にも蕩けそうで、それもまた私のドキドキに拍車をかけた。  ……っていうか、そもそも旦那様がこんなに見目麗しい美丈夫だなんて聞いてないわよ! ひとり、内心で吼える。  私の旦那様となったベイシェンス辺境伯ライナス様は身長百九十センチと長身で、粗削りながら彫りの深い整った目鼻立ちをしている。実用的な筋肉に覆われた体は文句なしに逞しくて素敵だ。  そう言えば、馬車からエスコートしてくれた時に重ねた手のひらは厚みがあって、私の手をすっぽりと包み込んでしまうくらい大きかったっけ。あの時の感触を思い出し、頬にカァッと熱が集まった。 「セイラ? どうかしたか?」  挙動不審にパッと視線を逸らした私に、旦那様が怪訝そうに問いかける。  僅かに眉を寄せて私を窺うその表情すら、見惚れるほどかっこいい。……どうしよう、旦那様がかっこよすぎて困る。 「い、いえ。なんでもありません」  精神年齢ウン十歳が今さらなにを……と思うかもしれないが、前世はずっと女子校育ちで女子大の在学中に突然の事故で死んでしまっている。聖女として接した男性たちはいたけれど、彼らはあくまで治癒対象。  恥ずかしながら、こんなふうにじっくり目と目を見て話すのも初めてなら、手を握ったのだって初めてなのだ。そりゃあ照れもするし、意識だってしてしまう。お相手がこんなに素敵な男性ならばなおさらだ。 「それならいいが……。もし体調が優れぬようなら、食事中だからと遠慮はいらんぞ。君よりも優先すべきものなどないからな」 「お心遣いありがとうございます。ですが、本当に大丈夫ですので」 「そうか。それならいい」  旦那様は安心したように白い歯をこぼし、グリーンの両眼をふわりと細くした。  ……わぁあっ。なんて爽やかな笑顔!  私は、少なくとも旦那様の性格面において、『無作法者』やら『野蛮人』やらの前評判を鵜吞みにしてはいなかった。だかといって、それらの単語から美丈夫をイメージできるほど想像力が逞しいわけでもなく。いやはや、イケメンの満面の笑み……その破壊力たるや凄まじい。  しかも、気遣いまで完璧ときてる。旦那様がハイスペックすぎて、いやいや。これは惚れるなって方が無理でしょう……。  今はまだ、出会って間もないこともあり羞恥と戸惑いが先に立つ。当然、心を開くには至らない。けれど、遠からず私はこの旦那様に心まで明け渡してしまうのだろうなと、そんな予感に慄いた。  そこからは少しぎこちないながらも静かに、そして穏やかに食事の時間が流れた。 「ごちそうさまでした」 「我が家の食事は口に合っただろうか?」 「ええ。とても美味しくいただきました。シェフにもよろしくお伝えください」 「必ず伝えよう」  料理も飲み物も文句の付け所なく美味しかった。特に食前にいただいたワインはよく冷えていて喉ごしがよく、疲れた体に染みた。私のために、氷室かなにかでわざわざ冷やしておいてくれたのかもしれない。  先に席を立った旦那様に優しく促されて食堂を出る。並んで廊下を歩きながら、頭ひとつ半ほど高い位置にある旦那様をチラリと仰ぎ見た。  ……不思議ね。  聖女として十八年のほとんどを過ごしてきた王城より、家族が住む実家より、今日初めてやって来たこの場所に居心地の良さを感じている。そしてなにより、当たり前のように私の隣に寄り添うこの人の温もりを好ましく思いはじめているのだ。  その時。ふいに旦那様と視線が絡み、ピクンと肩が跳ねた。盗み見ていたのがバレてしまった気まずさに目が泳ぎそうになるが、旦那様はそんなことはまるで気にしていない様子で、それはそれは優しげに微笑んでみせた。  ときめきと高揚を自覚しつつ、私は気恥ずかしさからぎこちなく微笑みを返すのがやっとだった。  その後も、旦那様はどこまでも紳士だった。  部屋の前に着くと扉を開き、私を中に促す。その時、彼自身はけっして中に足を踏み入れようとはしなかった。  彼は私が室内に入っていくのを見届けると、廊下に立ったまま「ゆっくり休んでくれ」と労りの言葉を残して颯爽と去っていった。その誠実さが好ましい。  閉まる扉を眺めながら、今日が初対面の旦那様に既に心惹かれはじめているのを感じた。
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