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甘い予感
ふと気がつくと、俺たちがいるエリアからは人がいなくなっていた。ついさっき、そろそろイルカショーが始まるという場内アナウンスが流れたから、皆んなそっちへ移動していったようだ。
俺は彼女の手を引いて壁際に寄る。
彼女は壁を背にして俺を振り仰いだ。
俺は彼女を隠すようにその両脇に腕をついて立ち、そのまま黙って彼女の唇を塞いだ。
一瞬驚いたように目を見開いたものの、彼女はふっと力を抜いて目を閉じた。俺を受け入れるかのように、その唇がわずかに緩んだ。
こんな所で理性が飛んでしまうのはまずい――。
その先を我慢して俺は唇を離し、彼女を見つめた。
「好きだよ」
私も――。
その言葉ごと飲み込むように、俺はもう一度彼女の唇をそっと塞ぐ。
ねぇ、君は本当に分かっているんだろうか。君が思っている以上に、俺は君のことが好きなんだってことを。俺と君が出会ってはじめの頃は、追いかける側にいたのは君の方だったはず。でも今は――。
俺がその目を覗き込む度に瞳を揺らし、けれど嬉しそうに微笑む君。愛おしくてたまらない気持ちになる。君が溶けてしまうほどに、甘やかしたい。君が、ほしい。
唇を離して、俺はみなみの耳元に囁いた。
「覚悟しておいて――」
人のざわめきが戻ってきた。
俺は体を起こして彼女を促した。
「さて、と。イルカショー、俺たちも行ってみようか」
恥ずかしそうにこくりと頷く彼女の横顔に、はらりと髪の毛が落ちた。
それをそっと払い、彼女の耳にかけながら思う。
覚悟が必要なのは俺の方かもしれないな――。
俺はみなみに寄り添って歩き出す。俺たちの間の距離は、ここに来た時よりもはるかに近づいたはずだ。
俺は彼女の指に、自分の指をするりと絡ませた。
<了>
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