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夏の夜の出来事だった。
だから、寒かったわけではない。
それでも、二人は寄り添っていた。
ソファに横になるような格好で座る鈴の腕の中にぐったりと身体を預けて、菫は一瞬、意識を失っていたようだった。その短い刹那に何か夢を見ていた気がする。けれど、目覚めるまでは。いや、目覚めた直後は鮮明だったはずなのに、すぐにそれは指の隙間から零れる水のように流れて消えてしまった。
身体が疲れ切っていて、動く気にはなれない。背中に鈴の体温を感じる。静かに聞こえる鈴の吐息を聞いていた。
「……大丈夫ですか?」
ぎゅ。と、背中から菫を抱いて、鈴が耳元に囁く。自分が今、どんな状況にいるのか、思い出せなくて、菫は戸惑っていた。
「……あの。嘘。ついてごめんなさい」
さらり。と、鈴の大きな手が髪を梳く。酷く億劫だったけれど、顔を巡らせて鈴の顔を見て、ようやく、何故こんなふうにしているのかを、思い出した。
「謝らなくていいよ。俺も。したかったし」
声が掠れている。それでも、一人で帰るなんて選択肢は菫の中には存在しなかった。今夜はどうしても鈴といたかったし、鈴の体温を感じたかった。
「鈴」
すり。と、全身で鈴にすり寄る。身体にはまだ、快感の余韻が残っていた。けれど、嵐のような情動は遠くへいってしまった。
「鈴……」
名前を呼ぶ。多分、言いたいことはあるはずだ。けれど、そのあとになんと、言葉を続けていいのか、分からない。形になりそうだと思った次の瞬間には霧のように消えてしまう。
もどかしくて、菫は唇を噛んだ。
「菫さん」
そんな菫の思いに気づいたのか、それとも、ただ焦れたのか、鈴が菫の噛み締めた唇にそっと口付ける。
さっきの乱暴なキスとはあまりにかけ離れた労るような優しいキスだった。
「もう一度、約束。します。
今度は……絶対、破らない。
覚悟。決めたから……絶対に守ります。
だから、何かあったら、教えてください。助けが必要なら、『俺』を呼んでください。
それから、俺のこと。ずっと、好きでいて。ほしい」
鈴の瞳が真っ直ぐに見つめていた。『覚悟』という、強い言葉に感じる真摯で誠実な思い。心を覆っていた不安が、霞んでいくのがわかる。
菫は嬉しかったのだ。その鈴の言葉が不安に立ち向かう勇気をくれる気がした。
「うん。ずっと、鈴だけだ」
だから、心の片隅にちくり。と、刺さった違和感に気づかないふりをしたわけではない。ただその時の菫はそれが、違和感だということにすら、気づいていなかっただけだ。
そして、それが遠くない未来、彼を苦しめることになるのだと、菫は知らない。
「菫さん」
ぎゅ。と、菫を抱き締める鈴の腕に力が籠もる。息が苦しいほど。
「好きだよ。鈴」
その日の菫には、ただ一つ確かなその思いを繰り返すことしかできなかった。
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