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どうして?
どうして?
すきだったのに。
わたしをみて?
わたしをあいして?
呟く女性を見つめると、ふと。何か別の風景がその向こうに見えた。
笑う男性。輪郭がぼやけて顔はよく見えない。けれど、優しそうだと、思う。
見つめる背中。振り向いた笑顔。募っていく思い。
告げた言葉に困ったような表情。振り返らない背中。
誰かと肩寄せて歩く後姿。
はっ。と、気付くと、女性は車道に歩き出す直前だった。いつの間にか腕を離れた菫がその背中に手を伸ばす。
届かない距離ではなかった。けれど、菫の伸ばした手は空を切って、女性はまた車道に向かって歩き出した。
「……あ」
菫の口から喘ぎのような苦し気な声が一瞬漏れる。鈴の方から顔は見えない。でも、彼がどんな表情をしているのか、背中を見るだけで想像がついた。きっと、今、鈴がしているのと同じ表情をしている。
もどかしくて、切なくて、どうしようもない。それに名前を付けることすら悲しくなるような気持ち。
けれど、その時だった。
女性が立ち止まる。車道に歩み出す一歩手前だった。
特に何かを感じたようには見えない。呼び止められたとか、邪魔なものがあったとか、あたりを気にしたとか、そんな様子はなかった。それでも、今まで何の躊躇もなく道路に飛び出していた彼女は立ち止まった。
そのまま数秒、彼女は俯いてそこにいた。髪の毛のせいで表情は全く見えない。それから、注意してみていなければ分からないくらいに微かに首を振る。それが、何かを探しているようだと思ったのは気のせいかもしれない。もしかしたら、首を振ったことすら、勘違いだったかもしれないから。
「あ……」
一呼吸するほどの間、そこに留まってから、彼女は足を踏み出した。それは、それまでの彼女と全く同じような仕草だった。そして、その彼女をまた、入ってきたタクシーがかき消す。
「……どして?」
鈴は、言葉を失った。
こんなことがあるはずがない。少なくとも、鈴はそんな経験をしたことがなかった。
人に人でないものが殆ど見えないように、人でないものには人が殆ど見えない。所謂『霊』と表現されるようなものの殆どは空気や場所に焼き付いた感情の残像のようなもので、本人の魂とは異なるものだ。特に自分の死んだ場所や思いを残した場所に在り続ける類のものは、菫に説明したとおり、映像のように同じことを繰り返すだけだ。
人ならざるものの中には、魂自体が残っているものや、もっと複雑で大きなものが時を経て変容したものもあるけれど、そんなものに出会うことは宝くじに当たるほどの確立だと思う。もちろん、車道に飛び出し続ける彼女は、そんな大それたものではない。
そして、そんなものたちが焼き付けた瞬間以外の行動をとることなどありえない。
それは、鈴が幼いころから体験して学んだことだし、鈴と同じような目を持つ母や姉から教わったことだ。
「違うことなんて。するはずがない。のに」
思わず呟く。
「……ときどき。さ。本当に時々なんだけど、あんなふうに立ち止まって見えるときが……あるんだ」
鈴の誰に向けたものでもない呟きに、菫は答えるように言った。
「でも、次の日には。また、飛び出す。だから、きっと、明日には……」
そこまで呟いてから、菫は鈴を振り返った。
「も。帰ろ。鈴、飲んでるんだろ? 送ってく」
そう言って鈴に向けた菫の表情は今まで見たどんな顔よりも鈴の心を捉えた。
切なくて、儚くて、それでいて強い。そんな笑顔だった。
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