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7 それの名を知っている
自宅のドアを閉めるなり、鈴は菫を強く抱きしめた。息もできないほど強く。だ。
まるで、一瞬でも離したら消えてしまうと本気で信じているのではないかと思っているかのように、その表情は切羽詰まっている。美しいと形容しても差し支えない顔が苦痛にも似た感情に歪むのを、菫はじっと見ていた。
不思議な思いが心を過る。
人ならざるものを見ることなど珍しくない。少し歩けば、彼らはどこにでもいる。菫はそれに積極的にかかわろうと思っているわけではない。ただ、毎日見るそれらの感情に何故か共感してしまう時がある。あの、流星群の夜も同じだった。
好きだった人に残した想いに引きずられたとき、可哀想と思うのと同時に、思うのだ。
うらやましい。
それをはっきりと自覚したのはおそらく今夜だ。
確かに今夜会った女性は、彼女を死に追いやったその人物のことすら覚えてはいなかったと思う。彼女から流れ込んできた感情の中でも、その顔はぼやけた印象しか残っていなかった。それでも、彼女の中にはその人を好きだった気持ちは残っていた。むしろ、その恋心は相手の姿が曖昧になった分、単純化されて、菫の目にはまるで、鉱物の結晶のように映った。
その純粋な好きと言う気持ちを、なくさずにいられるのは、辛いだろうけれど、羨ましい。
世間体とか、しがらみとか、常識とか。菫には邪魔になるものが多すぎる。
男同士でなかったら。とか。せめて同い年だったら。とか。こんな田舎でなかったら。とか。
菫の恋は始まったばかりなのに、鈴は好きだと言ってくれるのに、不安ばかりが募って、菫のことを苛む。
だから、全部捨てて、ただ一人を選んだ彼女らが、羨ましい。と、思った。
そして、菫はもう一つ感じていた。
心の底に沈んだ、想い。
「菫さん」
ぐい。と、鈴の両手が菫の頬を挟んで、上を向かせられる。されるままに顔を上げると、噛みつくようなキス。それは昨夜の甘く溶かすようなキスとは違う。そのまま舌を嚙みちぎられるのではないかと思うような激しい口づけだった。
「……ん」
息もできないほど思うさま咥内を弄られて、鼻から喘ぎにも似た吐息が漏れる。苦しくて、鈴の服をぎゅ。と、握りしめるけれど、鈴は唇を解放してはくれなかった。
鈴。
心の中で、菫は呟く。
鈴。もっと。
唇が自由だったなら、きっと、言葉に出していただろう。だから、強引なキスで奪われているのは、僥倖だった。
もっと。繋いで。離さないで。
菫の思いが伝わっているかのように、鈴はキスをやめようとしなかった。『なにもしない』なんて言ったのに、キスだけで終われるはずがないような激しい口づけだった。
忘れたくない。今を。
何故、こんなときに、こんなことを思うのか、分からない。単純にさっき見たあの女性に引きずられているだけなのだろうかとも思う。けれど、それだけでは説明できないほどの焦りにも似た思いが菫の中にはあった。
鈴を誰にも奪われたくない。なら、分かる。鈴に嫌われたくない。とか、ずっと一緒にいたい。とか、好きになってほしい。だったら、きっと、なんの疑問も感じることはなかった。
それなのに、菫の中に混ざった思い。『忘れたくない』に菫は違和感を感じないではいられなかった。
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