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絵本を閉じて、菫はため息をついた。
菫もこのS市で小学校に通った。だから、ある程度この黒羽乃介の話は知っていた。大抵の小学校では授業で取り上げるからだ。そのくらいこの小さな地方都市ではメジャーな話だったのだが、こうして読んでみるまで、詳しい話は忘れていた。
覚えていたのは黒い大きな狐が悪戯をして退治された。くらいの、僅か30字にも満たないうっすい情報だけだった。
「黒羽乃介……」
絵本の表紙を見つめる。そこには黒い狐が版画で描かれている。その目元に、一筋の赤いライン。
どこかで見たような。
などと言うつもりはない。もちろん、どこで見たのかくらいは覚えているし、名前だってちゃんと覚えている。絵本にはなかったその先の名前すら憶えているのだ。
鈴と一緒に黒犬から逃げた日。あいつに助けられた。鈴に言われるまま、名前を呼んだら、炎の中から現れたあの姿は簡単に忘れるものではなかった。
あの後、鈴に『何故俺にあいつを呼ばせたんだ?』と、聞いてみた。『名前が分かっているんだから、鈴が呼べばよかったのに』と、付け加えたら、あいつが名乗ったとき、その場所に鈴も一緒にいたはずなのに、『俺は正式な名前は知りません。その名前を聞くことができたのは菫さんだけです』と教えられた。『あの狐が名前を教えようとしていたのは菫さんだけでしたから、聞くことができたのも菫さんだけです』と、付け加えられたのだが、正直鈴の言っている意味が菫には分からなかった。
ただ、あれが、人でも、人であったものでもないということだけは、漠然と感じていた。
しかも。だ。
昨夜、狐の兄妹(?)に連れていかれたボロボロの社があった松林はちょうど七里塚の信号機の脇にある。史談会のHPにて調べたところ、中央通りでやるあの祭の元の社はあの朽ちた社らしかった。
「だからって……お稲荷さんとか。……ないだろ」
思わず呟く。呟いてみて、その現実離れした響きにバカバカしくなってしまった。
確かに、アレは人ではないし、狐かもしれない。百歩くらい譲って、もしかしたらアレが黒羽稲荷のお狐様なのかもしれない。けれど、今はアレだ。ちょっと不思議な力が使えるただのチャラい兄ちゃんだ。でなければ、菫のような平々凡々な一般人に名前を教えて助けてくれるはずがない。しかも、その理由が赤いカップうどんをあげたから(というわけでもないかもしれないけれど)だ。
きっと、長い時間が経って霊力が衰えて普通の化け狐になったんだろう。
きっと、そうに違いない。
自分を無理矢理に納得させて、菫は、業務に戻ることにした。
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