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 驚くべき事に咲良(さくら)と言う人物からの返信が来てしまった。薄紫色のレターセットを用いたそれを震える手で開封する。  きっと僕を罵倒するような、人間性を完膚なきまでに滅多打ちにするような文言が書き殴られているに違いない。本来の僕ならばそれを開ける事もなく部屋の片隅に放り投げ、耳と目と口を閉ざし布団を被りうずくまっていただろう。けれども僕はその手紙がどのような内容だとしても知ってしまいたいという思いに駆られていた。  何よりも他者からの評価に恐れ(おのの)く僕が、こんなただの紙切れ一枚に心を揺さぶられている。 『お返事頂けた事が嬉しくて、病床の身でありながら柄にもなく飛び跳ねてしまい姉に叱られてしまいました。本当に久しぶりに大笑いをしまして、それは今でも思い返すことができるくらいに愉快な出来事で、どうしてもお話を聞いて頂きたく筆を走らせています。烏丸(からすま)さんはご自分を「つまらない人間」だと仰いましたね。そんな事はない、と訂正差し上げたいところなのですけれどまだあなたの事をわずかにしか存じ上げません。烏丸さんさえよろしければ、またお返事を頂けませんか』  僕の不安は杞憂に終わり、同時に安堵とともに浮かんだ事がある。彼女は恐らく自由に身動きを取る事のできるような環境にはいない。そうでなければひっそりと瓶詰めの手紙にすべてを託すような、非効率的なやり方を選びそのうえ誰がいつ寄越すとも知れない返事を待っているはずがない。 「病床の身」と自らを称した部分が妙に引っかかる。 『咲良さんはどこか体の調子が思わしくないのでしょうか。答えたくないのならそれで構わないのですが気になってしまって』 『お察しのとおり、わたしは重い心臓の病を患っています。自由に動く事もままならず、じっと窓の外の落ちていく葉っぱを見つめては溜息を漏らすばかりです。わたしはただ外の風景が知りたいのです。空は晴れているのか、雨が降っているのか。暑いのか寒いのか。風はあるのかどうか。そして、心地は良いのか。烏丸さんが感じたままで結構ですので、そのままの真っ直ぐな気持ちを送ってきては頂けないでしょうか』 『晴れ、無風、やや寒い。特に感じる事はありません。「最後の一枚が散るとき私も死ぬ」。どこかで読んだ事があります。確か物語は彼女が生きる希望を見出して終わったはず。ですが僕は甲斐甲斐しく世話をする親友にも、命を賭して奇跡を起こす老画家にもなれません。それでもいいと言うのならできうる限りの事はしてみたいと思います』 『ご存知だったのですね。とはいえわたし、死ぬ事自体は怖くないのです。けれど何も知らないまま行ってしまうのがどうしても嫌なのです。それと同時にわたしという存在が誰にも知られないまま消えてしまいたくない。両親と姉、もちろん家族はおります。けれど他の誰かがわたしの生きた証になってくださればどんなに心強いか。そこで、烏丸さんにその役割をお願いしたいのです』  僕は愕然とした。思っていた以上に深刻な状況には違いないだろう。よりにもよって生き証人になどと、こんな僕がなれるはずもない。まったく馬鹿げた話だ。  手紙用紙を取り出すと書き殴る。 『さすがに僕の出来うる範疇を越えています。残念でしたね。せっかくですが他の方を当たるといい。さようなら』
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