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 桜の満開予想が出始めた三月下旬。僕は再び訪れた神埼家を後にして、あの河川敷へと向かう。手には受け取った弁当箱と水筒の包みが揺れる。  川辺には桜の木が立ち並んでいる。それを見に来た人達が楽しげに思い思いの時を過ごす中、僕は人気の少ない場所を選び桜の木の下に腰掛けた。そうして上着の胸ポケットから一枚の紙を取り出し広げる。 『桜の咲く頃、まだ私が生きていたらお花見をしましょう。痩せこけたこのような姿を晒すのは忍びないのですけれど、わたしはどうしてもあなたに一目会いたいと強く願うようになってしまいました。なんて恥知らずで馬鹿な女だと笑ってくださいますか。それでも、もし叶うのであればその時は手紙の続きを、わたしのまだ知らない話を時間の許す限り聞かせてくださいね。ちなみにこの窓から見える空はそちらへも、果てはあらゆる方向へとどこまでも繋がっているそうですよ。夜眠る前の、目を閉じるまでの間だけで構わない。あなたの居る空の(もと)へ行きたい。烏丸さんも同じ気持ちでいてくださいますでしょうか』  冬花さんが机の中に見つけた、けして届く事のなかった最期の手紙を読み返す。それは壮絶な闘病生活を思い起こさせるように、あれほど綺麗だった筆記は乱れに乱れていた。その先に続いている言葉を今日も手繰り寄せる事ができない。  水筒の蓋と中蓋を並べるように置き中身を注ぐ。僕は弁当箱を開けて、ほんのり塩気のあるおにぎりと甘い味付けの卵焼き、うさぎ飾りのりんごをそれぞれ半分に分けるとひたすらに頬張った。  その最中(さなか)彼女にすぐに会いに行かなかった後悔が浮かんでは消えてを繰り返した。彼女の無念を思えば思うほど、視界は滲んでいき鼻から上手く呼吸ができない。口じゅうの塩味が増していき、何を食べても飲んでも塩辛く感じた。そうしてどれほどが経っただろう。僕は何をするでもなく、桜の木に背中を預け川の流れをじっと見つめていた。  あの日拾った空き瓶をポケットから取り出そうとする。もう寒くなどないはずなのに手はわなわなと震えた。突き動かされるままに立ち上がり、戸惑いながらも生まれて初めての大声をあげて、それを力一杯川へと投げ入れようとした。けれども、その手はすんでのところで止まった。我に返ると寮へと戻るべく川に背を向けて歩き出した。  ふと、声が聞こえたような気がした。振り返ればそれは風の()だったのだろう。あの空を、地面を何度見渡しても何の気配もなかった。風に吹かれて舞い散る桜の花びらを視界に捉えながら、僕は弁当箱を痛いくらいに強く握り締めた。どうやら花はちょうど川へと落ちたようだ。  見渡す限りの快晴の下、暖かな心地のよい風がやさしく流れている。まだ見ぬその姿へ、僕も同じ気持ちであると一言伝える事ができたのなら。君は何と返事をするだろう。  揺れる水面(みなも)には真っ赤な夕日が反射して、キラキラと、キラキラと遠くを流れる桜の花が輝いていた。
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