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 一月一日。学生寮で初めて迎えた新年。年末は炬燵(こたつ)に潜りテレビから流れる騒々しさを背景に空虚の時を過ごした。それは怠惰(たいだ)の極まれり自堕落(じだらく)な生活。  一年の計は元旦にあるのだと言う。  このままではいけないと思いながら、この頭はこの手はこの足は、一歩たりとも進もうとした事はなかった。何かを変えたい。変えられるものならばすぐにでも変えてしまいたい。いつまでもここに居るべきではない。そんな思いは空しく、霧のようなものが僕を包み込み視線を固定させてきた。それはまるで関わりたくないもの、都合の悪いものを見てしまう事がないように。  恋人や友人と呼べるような人物などいるはずがない。昔から関係が上手くいっていない両親に大見得を切り、この見知らぬ地に出てきた手前、今更助けなど求められるはずもない。  これまでもこれからも、僕はずっと一人で生き一人で死んでゆくのだ。  思考が悪い方向へと循環してやまない。そんな中にあってもなお、鬱々(うつうつ)とした負の螺旋(らせん)を断ち切りたいと、僕は人知れず渇望(かつぼう)したのだ。一年の計は元旦。その言葉に両眼は見開いた。普段と違う事をしようと思い立ち上がった末に、この寮の近くを流れる河川敷に足を運んだ。  寒風吹き(すさ)ぶ川岸に腰を落とし、じっと水の流れを見つめていると川の中で何かがキラリと光った。魚か何かだろうか、あるいはぞんざいに投げ捨てられたゴミ同然のようなもの。深く考えずとも取るに足らない物に違いないのに、それが何なのかが気になって仕方がなかった。  流れ来つつあるそれを、冬の水の冷たさも忘れ迎え入れようと両手を伸ばした。拾い上げたそれは小振りのガラス瓶で、口にはコルクの(ふた)。よく見るとその中には紙切れのような物が入っているようだ。  気付けば体は凍えているかのように小刻みに振動を繰り返している。まずは体を温めようと狭い寮の一室に戻り、然る後、その中身を確かめるべく蓋を引き抜いた。 『この手紙を読んでいる方がもしもいらっしゃるのなら、下記の住所までご返信頂けないでしょうか。あなたはどのような方ですか。好きな物はありますか。何を見て笑い、怒りを覚え、また哀れみ、そして涙を流しますか。たった一言で結構です。どうかお返事をくださいますよう。――咲良(さくら)』  うっかり手紙を読んでしまってから、悠に二日は経過しているが未だ半信半疑のままだ。あれはきっと人を騙し嘲笑う目的の類のものだろう。仮に返信したところで悪意を持った何者かが僕をこっぴどく(けな)すのだ。  しかしながら好奇心とは恐ろしいもので、仮に事実なのだとすればこの咲良と言う人物は何故このような形で、見ず知らずの人間にこういった質問を投げかけてきたのかを知ってみたいと思うようになっていった。  つまり僕は穴が空くくらいそれを何度も読み返していくうちに、ただの悪戯には思えなくなりつつある。どこか切実な訴えがこの綺麗な文字列に含まれている気がしてならない。  朝から深夜までああでもないこうでもないと、近所の文具店で購入した簡素な手紙用紙のいくつかを駄目にしつつ、とにかく返事を綴った。ふと思えば誰かに向けて思いを馳せるのは初めての事のように思える。一月も半ばとなった早朝、ようやく仕上がった便箋を近所の郵便ポストに投函した。 『烏丸圭一(からすまけいいち)です。僕は都内の大学に通っている今年二回生になる者です。なかなか目標というものが見つからず無為に日々を過ごしています。信頼のおける繋がりが持てず感情の動く事もあまりないように思います。何だか思い返す度に、自分は何てつまらない人間なんだと頭を抱えてしまい眠れない日もあります』  夜の帳が下りつつある夕暮れ時、僕は寮への帰り道にいる。思い返せばあれは単なる一方的な独白に過ぎなかった。少なくとも対話などと呼べるような代物ではなく、当然返事などが来るはずもないだろう。僕はいつもこうだ。とうに理解をしていたはずだった。それでも、少しだけこの心が軽くなったような気がしたのは確かだった。  何者かも知れない咲良さんに申し訳ないと思いながらも、体のすべてが溶けて原型がなくなっていくように、今夜は深い眠りに落ちる事ができた。
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