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祖父の一族、けーちゃん、お菓子
『ガチャコン~ガチャコン~、、』
田園風景の中を、レトロな電車が走る。
映画に出てきそうな、 短い車両の電車は、改築100年を越える、日本最古の駅につく。
この牧歌的な田園風景の場所が、かつて 物流商人のシンクタンクだったと、知らなければ思いもよらないだろう。
日本地図を開いて、北海道を別に見る。すると、間違いなく この土地は、日ノ本の真ん中に位置する。日ノ本を体に例えば、ちょうど 括れたウエストの臍。
そして、この土地を真ん中に、周辺県が、ぐるりと近くに取り囲む不思議な状態になる。
江戸の時代にあっては、政策的情報集団のいる、伊賀や甲賀も すぐ足元。
日本海周りも、太平洋周りの海路も とても近い場所なのには、再度 驚く。
これに、湖の支流を使うと、すぐ瀬戸内にも出れる。少し位置はずれるが、かの英雄が城を建てるだけある地理。
どことなく覚えている祖父に生家へ。
目指すのは、祖父一族が氏子頭を務めた社だ。
そして、その近くに あるかもしれない、老舗和菓子店。
母親とけーちゃんが 話てくれた、幻の菓子を探してである。
レンタルサイクルのペダルを漕いで、山の麓を目指す。
笹の葉に羊羹を挟んだ、日持ちする和菓子が特産品とされるだが、名前の由来はまさに『丁稚』にある。
商人の人材育成というのは、江戸時代にあって、恐ろしく制度化していた。今の企業人事運営並みに、『OJT←オンザ・ジョブ・トレーニング』が徹底的していたらしい。
全国にある支店から、10才になると『初登り』で、本家に奉公にだされる。最初の30日、50日、90日の区切りを設け 試用奉公。この期間の査定で、1度里店に戻って、本家商法を里店で発揮するのだ。
この『試用丁稚期間』に、里店へ戻る際の土産が、『丁稚羊羹』。
これが 曲者なのだ。試用で使いモノにならない人材は、2度と本家に呼ばれない。
『初登り』の『丁稚羊羹』で、最後になるか?毎年『丁稚羊羹』を里店に持って帰れるか?そんな、暗黙の了解的なマウンティングが、菓子1つでわかる。
さらに言えば、
エリート商人に為るため、この本家へのOJTを、多ければ年に3回務め修行をする。そうして、
丁稚、手代、番頭、支配人、そして暖簾分けレベルの別家まで、登り詰めるのだ。最後の別家でさえ、『独立別家』と 更に格上の 『日勤別家』とある。
10才で初奉公して、最短で35才で別家となる ハイスペック商人もいたが、約5割が、丁稚段階で辞めるという、賃金手当て厚いがハード企業。完全能力の下克上ワークだ。
重ねて、人材資質で必要なのは、『早い事』。行動、思考、実行、計算、結果。そして、人徳。これらに抜きん出、尚且つ 強靭な体力。
どんなに役が上がろうと、天秤棒を担ぐ、現場主義であることが、最大に求められた。
後に設立された『商人士官学校』は、『泣く子も黙る八商』と恐れられ、元祖日ノ本MBAとなり本格派企業人を出している。
初めは、安価の『丁稚羊羹』を土産に里店に凱旋し、そこから本家に昇る度に、役が上がれば、土産の菓子も少しずつ高価に変化する。
商人が『お節料理のお重詰め』を全国に拡げたのは、年末の土産として、諸国集まる菓子、銘品を詰め込んで帰るとこからだともいわれる。
その証拠とでも云おうか、東北の御節お重には、水羊羹を入れる地域があるのだ。
そのため、驚くことに、最盛期は この狭い集落に、和菓子屋が40件あった。
当に、この場所に日本中から集まらない物はないと言われ、そこから手土産としての和菓子が発展した。
そんな一族の末裔当頭だった祖父は、自分が菓子屋に作らせていた『菓子』がある。
自分の祝い事になると、振る舞われる菓子。
祖父の舌は、全国から集められる美食を覚えていたから、その菓子は本当に美味しかった気がする。
残念ながら、もう幼少期に食べた切りで、舌の記憶も曖昧なのだ。
でも、母は亡くなる正月の時にでさえ、祖父の幻の菓子を食べたいと言っていた程。
そして、けーちゃんに食べたい物を聞くと、
必ず『プリン』と言う。
わたしが、最後に食べる物を挙げるならば、
やっぱり、けーちゃんと同じく祖父が自ら作った『プリン』だ。
しっかりと卵と牛乳の風味がして、甘すぎなく、苦みと焼きが効いた濃いカラメルソースが、プリンに全体に滴っていて、何の雑味もない。
固めに絞られた軽い口溶けのホイップクリームと
缶詰めのサクランボがちょこんと乗っている。
色も、味も、香りも、絶妙だった。
話を戻せば、祖の幻の菓子は、本当に幻になっていて、二度と食べる事が叶わず、
母はコロナの渦中に逝った。
そしてけーちゃんに聞いても、もうそんな菓子の存在さえ、覚えていなかった。
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