Fall

1/5
前へ
/5ページ
次へ
「なんとか言ってくれ!」 「平原(ひらはら)さーん!!」  高峰(たかみね)の叫びに返事を寄越すものはいない。  ここは7200メートルの急峻の山だ。標高が高すぎて、山びこさえ返ってこない。夏季で、晴れ渡っている。彼がへばりついている岩壁は、山頂に至るための最後の難所だった。  それでも高峰は、彼を誘う山頂の方へは目もくれなかった。身体を支える、頼りないハーケンのことも見なかった。一心に下を見た。  現実感がうすいほどの、目のくらむような高さ、牙を剥いて待ち受ける遠くの岩、岩、岩、溶け残りの雪……  そして赤いジャケット。  タロットカードの『吊るされた男』のように、ザイルロープ一本で、人間がぶら下がっている。  宙吊りになっているのは、高峰 峻のザイル・パートナーで平原 なだらかという男だ──いや、平原なだらかのパートナーが、高峰 峻だ。いつも平原が最初にいて、高峰はそのサイドキックなのだ。  平原なだらかが登頂したとき、いっしょに高峰 峻がいて次にそのピークを踏む。平原なだらかがカメラに向かって拳を突き上げるとき、そのカメラを持っているのが高峰 峻だった。  宗教上の理由などで立ち入りを禁止されている山を除き、未踏峰で目ぼしい山は、世界にはほぼ残っていない。二人はこの山で、未踏ルートでの登頂を目指していた。  未踏ルートとは、『この道筋で登った者はいない』という意味で、未踏ルートで登頂すれば、登山家にとっては名誉になる。どんな厳しい山でも、定番のルートは他の道筋を辿るのに比べて一番易しい。山のうちで登られたことのない場所を登っていくのは難しい。  なぜ登られていないかというと、人類が登ろうと試したけれど途中で諦めたか──その度に死んだ場所だからだ。 「平原さん!」  なにー?どうしたー?  いつもならそうやって応えが返ってくるはずなのに、いくら呼んでも、返事はない。  平原は滑落したのだ。  彼は登山家で、岩壁登攀には目を見張るほどのセンスがある。野生動物のように登る。初めて見る岩、触る岩壁なのに、いつも通る通勤路の乗り換えみたいに躊躇いなく行く。  彼は岩壁でも、雪山でも、パーティが遅れようとザイルパートナーがばてようと関係なく、自分のスピードで登りたがる。大人数での登山には向かないから、最小限での人数の登山ばかりやっている。  彼は今日もそうして、高峰だけを連れてザイルを繋ぎ、がんがん登っていた。  登頂への気持ちや山への執着というよりは、目の前の岩を掴み、ハーケンを打ち、足で岩を探って身体を上へと上げていく、自分の頭がちょっとずつだけでも上へとあがっていく、そのことそのものを楽しんでいる。彼は本当の意味での冒険家だった。  同じ山でも、三回登って、四回目で死ぬ。四回制した山でも、五回目には復讐される。  「あんなことをしていれば、いつかは……」と登山家は思われている。そして“いつか”、はやってくる。やってくるまでやめないからだ。  ネット上の百科事典の、その登山家の記事の生年月日が、たとえば『19⚪︎⚪︎年⚪︎月⚪︎日─』と書かれていたのに、急に『─2024年⚪︎月⚪︎日』と書き足される。  平原だって全然落ちそうになかった。誰が見ても驚くような確かさで登っていたのに、急に落っこちたのだ。  不意に風が吹き、高峰は背筋がぞっとした。風の勢い自体は、幸いなことに緩やかだった。岩の割れ目に自分が叩き込んだハーケンだけが、彼と、そして今はぶら下がった平原の体重も支えている。  平原だってしっかりとハーケンを打っていたはずだ。平原の技量が不確かだったとは思えない。  岩は自然の産物だから、強度が保証されているわけでも、耐荷重は何キロまで、と張り紙がされているわけでもない。どんなに確認しても、岩はふとしたときに気まぐれに剥がれる。『やっぱりやめた』といって冷酷に割れる。人間の命がかかっていたってお構いなしだ。   「平原さぁん……!」  赤いジャケットを着た平原の身体は、高峰が見ていてもぴくりとも動く気配がない。弱い風に、不安定に揺れ続けている。ハーネスのついた腰から仰向けにのけ反るように脱力し切った手足が見える。表情までは見て取れないが、首が仰いている。  平原は、高峰より先をいっていた。高峰より高くから、今ぶら下がっているところまで落ちた計算になる。  今日も、平原はペースを落とそうとしなかった。彼の速さは、身を守るための術でもある。好天ならできる限り速く進む。ぐずぐずしているとそれだけ危険が増す。時間をかければ天候も変わり、体力も浪費する。速さこそ正義というのが彼の持論だ。  高峰は、そのとき、しんどくて歯を食いしばって顔を伏せるようにし、必死で岩壁にとりついていた。だから一瞬、横を通ったそれが落石かと思った。あまりに静かだった。  それからザイルロープへがくんと大きな衝撃があり、落ちてきたのが赤い大きな石なんかではなくて、平原だと気づいたのだ。  落ちる前の段階で上から落石があり、平原の頭に当たったのかもしれない。落ちる間に岩壁にぶつかった可能性もあるし、落ち切ってロープが張った衝撃で気を失ったのかもしれない。ただ単に落下すること、そのもので気絶したのかもしれない。ビルから飛び降りる人間は、地面に接する前に意識を失うという。  または、平原は意識はあるけれど動けず、応答できない状態にある。あるいは……。  高峰は、平原の胴体についたハーネスにどれくらいの衝撃が加わったのか考えた。それでも首を振ってその考えを押しやった。  そんなはずはない。あの人は頑丈だから。  
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加