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『単独、無酸素』
という言葉には、特別な意味がある。
自分一人の単独行であり、酸素ボンベを使わないこと。それが昔ながらの、本物の登り方だ、とされている。それを尊び、他は所詮邪道で二流、登山家自身の力ではない、とまでする風潮もある。
『単独無酸素で、平原なだらかが登頂を……』と書いた記事が出た。取材不足のばかな記事だった。平原はそのとき高峰と、他一名と共に登っていた。単独行でもないし酸素だって使っていた。単独無酸素だと宣言したこともない。
ただ高峰と他一名が写真に写っていなかった、酸素を使ったと明言していなかった。それが曲解されて”単独無酸素”だと記事が書かれたのだ。
平原が訂正や言及をしなかったせいで、本当にこいつは単独無酸素なのか、と世間が調べ始める。
『嘘だ。一度も単独でやったことがないのに、そう見せかけている。誤解するよう誘導している。こいつはいつもこうだ』
『所詮はタレント、アイドル登山家。何十人もサポートがついていて、荷物を全部持たせてる』
『共に登ったメンバーの写真が世に出ないよう、言論統制を敷いている』
SNSでは批判が吹き荒れた。
平原は、性格が良いとは言えない。自分のペースで登ることを最優先し、他人に対する奉仕精神も薄い。有名な登山家は性格に一癖も二癖ももつことが多いが、その中でも平原は敵を作りやすい。
タレント、アイドル登山家、なんていうが、平原はその実タレントに向いた資質を持っていない。自分の持っている魅力で人をどうにかしてやろうというサービス精神がない。スポンサー側の認識も本人とずれている。
応援され、人の視線を受けると輝く人間がいる。平原はそうではない。人が見ていようが、誰も見ていまいが、彼は同じだけ進み、進むのが無理なら撤退する。
応援されれば応援されるだけ、頑張って進める、という人間は危険だ、と高峰は思う。危なすぎる。少なくとも登山家には向いていない。
平原に魅了されるなら、魅了される側が勝手にそうなっているだけだ。彼は陽気でも明るくもない、人懐こさとは無縁だった。ただちょっと、へんな奴ではある。クールなのでも、迎合しない強い自分を演出しているわけでもなく、平原はただ無遠慮に平原なのだ。過酷な環境に身を置くちょっとへんな人間は、話題にはなりやすい。
平原が携えている、純粋な興味、冒険心。そのあまりの強さと、無垢なさまに、ひとは恐ろしさを感じる。その恐ろしさは、遠くから見ていれば希釈されて、おもしろさとして受け取れる。遠くの山で、わざわざ大変なことをしている奴は、ぬくぬくと家で何かしらの画面を見ている人間にとっては、おもしろい。
山の近くにいる人間ほど、登山をやる人間ほど、彼のことは恐ろしく感じる。
やっていくうちに濁るもの。大人になったときに手放してきたもの。それらが濁らず、それらを手放さずにいる平原のことを、恐ろしいと思う上に厭わしいと思う人間も多かった。
登山家としての自分がいかに濁っていて、いかに持っておらず、いかに持ちすぎているかを痛感するからだろう。人間は本来、何千メートルもの高所で岩壁を登るのには適さない生き物なのだから。
決定的だったのは、”単独無酸素”だと”偽った”と話題になったときに、高峰ではない、パーティのうちのもう一名がコメントを発表したことだった。
『エベレストのときは単独行ではないし、無酸素でもありません。酸素ボンベを使っていたし、パーティには僕もいました。なんでか、写真には写っていないけど(笑)
僕は、彼を登山家として褒めることができません。いつもの振る舞いからして、彼が意図的だとしても誰も驚きませんよ』
そんなコメントを出したこの人間は、平原に思うところがあったのだろう。かろうじて、嘘も言っていない。
仲間が疲れ果てていても待たない平原。高峰の方を向いて『いつものように二人なら登頂だってもっと早かった。時間をかけすぎて危険が増した』と、この人間の前ではっきり言った平原。こんな対応をされて、我慢できなかったに違いない。
登山仲間がこんなことを言うのだから、実際、相当悪辣な人格なのだろう。前々から変な感じはしていたし──平原のことを、世間はそう解釈した。
平原がこれまでにしでかしてきたエピソードが発掘され始めた。その四割程度は事実に則さなかったが、人を置いてでも進みたがることも、協調性がないことも、彼とはとても組めないと他の登山家たちに言われてきたことも事実だった。『彼とは組めない』は、称賛を含んだ言葉だったはずだが、このときは反対の意味をもって受け止められた。
平原がもう少しだけ、人懐っこく微笑むことができていたら。心にもないことを、たまには言えていたら。こんな騒ぎにはならなかったのかもしれない。
世論は平原の敵にまわった。
スポンサーが降りた。単独行か否か、という問題と並行して、平原のイメージそのものが悪くなった。
エベレストで使う酸素ボンベだって、単独行ではなく二人で行くことだって、『より遠くまで確実に行けるから』平原はそれを選んでいた。いつもそうだ。彼はより遠くまで確実に行く可能性を探る。
彼は、ジャケットの機能が良いから、という理由で赤いジャケットを着続けていた。平原が今も着ている赤いジャケットは、スポンサーだった企業から提供されたものだ。こんなふうにスポンサーに降りられれば、大きなロゴの入ったジャケットは脱ぐのが普通の感覚だが、平原は機能面でこのジャケットを気に入っていて、ずっと使っている。
平原はこの騒ぎについて、ただ、『単独無酸素か。』とだけ言った。苦しんでいる様子はなく、ただ、それに惹かれた、という感じだった。
そう、彼はそれに惹かれ始めていた。もしかすると、前々からその展望はあったのかもしれない。
一人で行く。そういつ平原が言い出すのかと、高峰は怯えた。いっしょに行きたい、という気持ちもあるが、彼が単独行を選んだ途端、死ぬような気がした。誰かが見ていていないと、ふと山か、雪の一部になってしまって、帰ってこないような感じがする。あまりに一心に進むから。
高峰には、平原はただ、人間界に間借りしているだけに思える。そのうち、仮住まいするのをやめて帰ってしまうかもしれない。厄介なのは、そんなところが好きでもある、というところだ。それでも高峰は平原に、『より遠くまで確実に行けるから、二人で行くし、酸素も使う』と言い続けて欲しかった。
今回、平原が滑落したことを考えると、この予感は合っていたのだ。一人だったらそのまま死んでいただろう。
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