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今、彼が死んだら。何故死んだのか、と人々が話し始めるに違いない。
──岩壁のスペシャリストというのも嘘だったのか?
──どんな壁だって登ってきたというのに、何故今回落ちたのか。もっと難しいところも登ったはずなのに。
──たやすい岩壁で落ちたなら、詐欺師だと批判されたことを苦にしたのではないか?
高峰が一番許せないのはそれだった。そんなことを苦にするわけがない。平原はもっとたくましい、予想もできないほど強い。
お前らの言うことなんて気にしない、お前らがあの人をどうこうできるわけがない。落ちたのはまったくの偶然なのだ。
たやすいだと?手で岩を掴み、身体を持ち上げたこともないくせに。
──私たちのせいではないか。世論が登山家の、平原なだらかの命を奪った
ばかなことを言うな!
世間が、平原のことを、自分たちのものみたいに扱って悼んだり、悔やんだりするのも、高峰は絶対にいやだった。
このままにしておけば、いずれは二人とも落ちてしまう。
意識がない人間を抱えてこの断崖を降りるなんて絶望的だ。
平原に繋がっているザイルを切断すれば、高峰は生還できる。高峰一人なら、なんとか慎重に、来た道を降りることができるかもしれない。岩壁を斜めに進めば、休めそうな岩場がある。
ここから降りていくことが難しいなら、一人でさらに上へ進むことだってできる──頂上を経由しての下山。そうしたら登頂だ。仲間を失いつつも未踏ルートで山を制した、という登山家としてのステータスが手に入る。
逆だったらどうだろう、と高峰は考えた。
高峰がぶら下がっていて、どうにもならなくて、平原は岩にしがみついているけれど、いつかは共倒れになる。そうしたら、高峰は自分のザイルを切ってくれと願うだろう。平原のことを巻き添えにするなんてごめんだ。自分で切ることはできないかもしれない。平原に、切ってほしい、かもしれない。
実際、そういう話しをしたこともある。
ザイルを切らなければいけないなら、切る。望みのない方を切り捨てる。それでお互い恨みっこなし。そう取り決めをしたはずだった。
平原は、きっと取り決めどおりにする。あまり躊躇わないのではないか。ナイフを取り出してザイルを切りおとす。時間を無駄にはしない。彼の冷酷ともいうべき強さはそういうところでも発揮されると思う、そしてそうであったら彼らしくて嬉しいと高峰は思う。
下を見ている平原が、きらりと太陽の光をナイフの刃に反射させ、無駄のない動きでザイルを切る。高すぎる標高のため黒ずんだ青空と、平原。それがきっと、高峰の見る最後の光景になる。
でもこれは、高峰の方が宙吊りになっていたら、という話である。今は意味がない。
なぜあんな取り決めのことを、高峰が守らなければならないというのか。
絶対に諦められない。結果として、ここでふたり終わったっていい、と高峰は思った。運命の紐で繋がれて、平原と共に落ちるならそれでもよかった。けれど平原のザイルを、自分のナイフで切るなんてことは考えられなかった。
高峰は、冬の山で、二人でオーロラを見たことを急に思い出した。印象的だった。オーロラは見事だったけれど、オーロラそのものよりも平原のことが思い出される。
音一つしない雪の、夜の中で、二人で空を見上げた。誰も迷惑がる者はいなかったのに、話すときは不思議とひそやかな声になった。
『電磁波のくせに、なかなかやる』
平原が言った。
きれいとか、すごいとか、緑色だとかではなくて、電磁波。ゴーグルをとった平原の目がオーロラをひたと見上げていて、高峰はその目を見ていた。冒険家の目だった。
『なあ、高峰は、俺と写真に写るのがいやなの?』
唐突な質問に、高峰は少し驚いた。そういうのを気にする心の部分がこの男にもあるのか、と思ったのだ。
『みんなが見たいのは平原さんの写真だ。平原さんが頂上に立っているところ』
実際、それを見たいのは高峰だった。だが高峰と同じ気持ちの人間が多いだろうから問題ない。
ピンの写真がいい。自分とのツーショットは、平原が雪山で一人でぽつんと立っている写真よりも、素敵ではなくなってしまう。
平原は単独行だ、と信じた者がいたのは、こういう理由かもしれない。平原が山にぽつんといるのが、何より映えるから。他の人間に近くにいて欲しくないという気持ちをうっすらと持つ人間が多かったのではないか。
『でもそれ違うんだろ?”とはいえ”なんだろ。本心では一緒に写真に写りたくないけど、角が立つからそういうこと言うんだ。俺と一緒にいると思われるのいやなんだろ。何かあったときに巻き添え食う」
平原は、いつのまにかオーロラではなくて高峰の方を見ていた。言った言葉と裏腹に、どこか自慢げにしている。最近は冒険だけではなくて人間の言語も習っているんだ、そろそろ習熟してきただろ!と言わんばかりだ。
ぜんぜんダメだ。それって角が立つからそう言っているだけで、本当はこうなんですよね?と聞いたら全部ダメになるじゃないか。ゼロ点。
『違うよ。受け取り方が歪んでるよ。あんたの努力は認めるけど……こんな場所でまで頑張ることじゃない』
こうやって甘やかすのがいけないのかもしれない。けれど高峰には、オーロラが見えるほどの極地にいて、平原がそんな努力をしないとならないのは不条理に思えた。
『"高峰 峻"って名前、いいよな』
『急だな。話題の方向転換は緩やかに行えよ。それじゃみんなついてこれない』
二人は相変わらずひそひそと話す。
『登山家向きのかっこいい名前。それに比べて、平原なだらかってなんなんだ』
“平原”という苗字も、”なだらか”という名前も、彼は気に入っていないのだ。彼の性質とは正反対の名前だ。なだらかと呼ぶと怒る。
『あげようか』
『なに?』
ここに来るまでずっと二人きりだったから、平原のおかしさが高峰にまでうつったようだった。
『平原さんにあげよっか』
高峰 峻を、あげてもいいと思った。
平原は首を傾げるよりも先に『じゃ、もらっちゃおかな』と言った。悩んだり考え込んだりするよりも先に、こういうことを言ってしまう。
単独無酸素を騙ったと言われても、傷ついたり反論したりするよりも先に『じゃあ単独無酸素をやってみたらどうなのかな』と考える。
平原はそういう人間だ。そんなところが平原の命を繋げてきた。彼は冒険家だ。
この名前も、彼の方が似合っている。高峰は、彼がそう望むなら、自分がしゅっと音を立てて消えて、彼が高峰 峻になってもいいと思えた。高峰 峻をあげる。ばかな発想だが、オーロラが空一面に広がっていて、人類は他にいなくて、だから仕方ない。
『苗字をくれるってこと?』
『え?』
『結婚するってこと?』
平原は、オーロラのことを指差した。まさにロマンチックなシチュエーションだと言いたいらしい。
『俺が”高峰なだらか”になるって?法律が整ったら』
『それじゃ、なだらか部分が解決してないよ』
『結婚したら、危険なことはやめるんじゃないかって言われた』
『平原さんが?』
『俺がだよ』
『誰に言われたんだ』
『……』
『そんなのあり得ないと思うけどな……』
でも高峰とじゃだめだなあ、と平原は笑った。
『高峰と結婚したんじゃ、ますます登るよ』
高峰は、ちょっと言葉が出なかった。嬉しいのか、驚いたのか、よくわからないままに、息を吸って、次に吐いた。平原ももうそのときには空を眺めていて、きっと高峰の心境については気づいていない。
『寒い。テントへ帰る』
あっさりと平原は言い、それでオーロラもその夜もおしまいになった。
高峰が考えてみると、彼と命を預け合うザイルパートナーでいられるのだから、結婚も無理ではないように感じる。
でもあまり意味がないとも思う。ザイルで繋がれていることは、他の何かの関係性で結ばれているよりもずっと強い。物理的な一蓮托生、自分の死が相手の死とつながり、自分の生が相手の生へつながる。ただ、一本のロープで。この世にそれ以上は存在しない。
それに、結婚したって平原なだらかのなだらか部分も解決しない──メリットは、身元引受人になれることくらいか。
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