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「邪魔」
低く冷たいトーンで吐き出された言葉に、宮原詩音は慌ててドアの前から移動する。声をかけてきたのは、クラスメイトの木谷透だ。スクールカースト最上位で、いつも周りにはスカートの短い女子を侍らせている。
派手な赤い髪に三つ並んだピアス。見た目は完全に不良だ。しかし、顔良し、意外にも学業成績良し、運動神経抜群、その上教師にも物怖じしない気の強い性格。女子達がそんな彼を放っておくわけがない。興味なさそうにしてはいるが、それでも木谷透の周りには常に人が絶えなかった。
それは男子も例外でない。舎弟か? と疑うような、彼に憧れ、側を離れない男子生徒も多い。
詩音はあまり話したことがないけれど、きっと木谷透という人間は、人を惹きつける魅力に溢れているのだろう。
それにしても、と詩音は大きくため息をつく。
邪魔って言い方はなくない?
ぷくり、と人知れず頬を膨らませながら、詩音はゴミ袋の中にゴミをぽいぽいと放り込んでいく。
詩音の通う私立学校には、清掃やゴミ収集をしてくれる担当の従業員がいる。だから、詩音がゴミを片付ける必要は一切ないし、実際他のクラスメイトはこんなことをしない。ではなぜ詩音がわざわざゴミの仕分けをしているかといえば、単純な話だった。
清掃員の人がゴミを集めるときに、ゴミの中身を確認して仕分けしているのを見てしまったからだ。
燃えるゴミ、ペットボトル、缶、とゴミ箱が分かれているのに、生徒達は適当に捨てているらしい。清掃員の方の手間を増やしていることも知らずに。
そのことを知って、詩音はとても恥ずかしくなった。もう高校生。文字の読めない子どもでもないのに、ゴミの分別すら出来ていないなんて格好が悪い。何より、いつも学校を綺麗にしてくれている清掃員の人に申し訳なく思った。
それから詩音は放課後近くなると、ゴミ箱の中を確認するようになった。燃えるゴミの中に当たり前のように放り込まれている、中身の残ったペットボトル。せめて中身は捨てなよ! と言ってやりたいが、捨てているのが誰かなんて分かるはずもない。
嫌がらせを受けている生徒の筆箱を見つけたこともあったし、絶対に仕分けしなければならないはずの缶電池が捨てられていたこともあった。
これはそのまま回収できないわけだ、と納得し、清掃員さんの一手間を減らすため、ゴミの分別とゴミをまとめる作業は詩音の日課となった。
「詩音っていい子ちゃんだよね」
「なにが?」
「だって、ゴミ収集なんて清掃員の人の仕事じゃん? わざわざ詩音がやる必要なんてなくない?」
友人である月子は、薄情なことにゴミの仕分けをする詩音を眺めるだけで手伝ってくれることはない。
曰く、自分の仕事じゃないし、手が汚れるのも嫌だから、と。
言いたいことは分からなくもない。清掃員の手間を減らすため、だなんて結局は綺麗事なのだ。どうせ詩音がこうしてゴミをまとめたところで、清掃員の人は念のためゴミ袋を開けて確認するのだろう。
ゴミの分別も出来ないことが恥ずかしいから、と言ったって、それも結局は自分がそういう簡単なことも出来ない人間だと思われたくないからだ。つまるところ、全て詩音の自己満足であることに違いはなかった。
「いい子ちゃんでも、自己満足でも何でもいいの。一回気づいちゃったからには、やらないのが気持ち悪いからやってるだけだよ」
責任感なんて綺麗なものではない。完璧主義? ただの潔癖? 答えは分からないけれど、詩音はただ見て見ぬふりをしたくないだけだ。
呆れたように、それでいて感心したような色を含ませて、友人が笑う。
「詩音のそういうところ、嫌いじゃないなぁ」
「そこは好きって言ってよ」
「そこまで褒めると調子乗りそうだからやめとく」
「私のこと、何だと思ってるの?」
もう、と思わず笑みをこぼしながら、詩音は最後のゴミを袋に詰めて、しっかりと袋の口を締める。これで今日の分はおしまいだ。
お疲れ、と月子が笑いかけてくるのに応えてから、詩音は手洗い場でしっかりと手を洗う。そして教室の自分の席に戻り、目を丸くした。
購買で売っている、いちごミルクの紙パックが机に置いてあったのだ。詩音はよくこれを飲んでいるが、今日は買った覚えがない。
未開封のそれを眺めて、思わず首を傾げる。
「このいちごミルク、誰の?」
隣の席に座っている優等生、丸山克也に訊ねると、知らない、と答えが返ってくる。
分厚い本を読んでいるので、ずっと席にいたことは明白だった。しかし周りに興味のないこのクラスメイトのことなので、おそらく本当に誰が置いたものか見ていないだろうな、と詩音は苦笑をこぼした。
笑った詩音の態度が気に食わなかったのか、克也はメガネを押し上げ、不満気に呟く。
「誰が置いたのかは知らないけど、それは宮原さんが飲んでいいやつだと思うよ」
「えっ、なんで?」
「ほら」
克也はくるり、といちごミルクの紙パックを裏返す。
いつもゴミの分別ありがとう。
油性ペンで雑に書き殴られたその文字に、詩音は目をまたたかせる。
「ゴミ箱をひっくり返してゴミの分別なんて物好きなことをするのは宮原さんくらいだし?」
「…………貶してる?」
「褒めてるよ」
その割には棘があるんですけど、と頬を膨らませながらも、悪い気はしない。
月子や克也の言葉。それから、差出人不明のいちごミルク。
真正面から素直に労ってくれる人はいないけれど、詩音のやっていることを誰かが見てくれている、という事実に励まされる。
いちごミルクの紙パックに書かれたメッセージを、こっそりスマートフォンの写真に残して、ストローをさして口に含む。
飲み慣れているはずのいちごミルクは、どうしてか、いつもよりもずっと甘く感じられた。
それから時折、詩音の机にはいちごミルクのお届け物が届くようになった。
これからはちゃんと分別します。
マメでえらいと思う。
オレもやろうかな。
明日こそは手伝う。
恥ずかしくて声かけるの無理。
むしろ手伝えって言って。
少しずつ増えていく紙パックのメッセージ写真。それを見返しながら、詩音は一人で口元を綻ばせる。
ゴミの分別中に何度振り返ってみても、詩音の席にいちごミルクは置かれていない。いつも置かれるのは、手を洗いに行ったタイミングだ。
ゴミを触った後に手を洗わないわけにもいかないので、どうしても教室から離れることになる。
何度か隣の席の克也に頼んだことがある。
「私の机にいちごミルクを置いた人がいたら、絶対それが誰か見ておいて!」
「何で俺が」
「隣の席のよしみでしょ!」
と、言いながらも差出人は分からないままだ。克也がちょっと席を離れた隙に置かれていたり、読書に集中していて気が付かなかったり、と、タイミングが合わないことが続いたのだ。
メッセージの内容から察するに、いちごミルクを置いてくれているのは男子だ。それも、相当照れ屋で不器用な人。メッセージはいつも殴り書きで雑だけど、意外と綺麗な字をしている。
どんな人なのかな。きっとクラスメイトの誰かなのだろうけど。
いつも詩音を見てくれている、認めて、褒めてくれる人。ちょっと不器用で優しい人。
正体不明のいちごミルク差出人のことを、詩音は心の中でいちごミルクくんと名付けた。
三月になればクラス替えがある。そうしたら、きっといちごミルクくんのことは見つけられなくなってしまう。それまでに絶対見つけてやる、と詩音は心に決めていた。
正体を知りたいという気持ちに入り混じって、ほのかな恋心が芽生えていることに気づかないまま、詩音は今日もいちごミルクを飲む。
優しくて甘い、恋のような味がした。
季節は巡り、期末試験の期間に入った。春休みは目前。つまり、このクラスでいられるのもあと少し。
詩音は未だにいちごミルクくんを見つけられずにいた。試験期間中は午前中で放課になるため、購買はやっていない。そのせいか、いつも通りゴミを集めていても、その期間はいちごミルクのメッセージはなかった。
それを寂しいと思う自分がいることに、詩音は気づいていた。自己満足でやっていたはずのゴミの分別なのに、いつのまにか見返りを求めてしまっている。
こんなのはよくない。そう思うのに、いちごミルクくんからのメッセージが、本当に嬉しかったのだ。会ってちゃんとお礼を言いたい。そう思ってしまうくらいには。
テストの出来はまあまあだった。そのまま帰宅しようとして、ふと気がつく。テスト期間が終わって部活が解禁になるということは、購買がやっているはずだ。
テストで疲れた脳がいちごミルクを欲していたので、詩音の足は自然と購買へ向かっていた。
予想通り、購買は開いていた。お目当てのいちごミルクを購入した後、教室に忘れ物をしたことに気がついてしまう。面倒だし、疲れているけれど、一度気づいたら放っておけない性分だ。ため息をこぼしながら詩音は教室へと戻っていく。
結果として、詩音のその行動は間違いではなかった。誰もいないはずの教室をそっと覗き込むと、派手な赤い髪が目に飛び込んでくる。木谷透だった。
あまり話したことのない彼と二人きりになるのはなんとなく気まずい。すぐに用事が済むようなら、彼がいなくなってから教室に入ろう、と決める。そっと中を覗いていると、透は自分の机で何か作業をした後、すっと立ち上がる。それから手に持っていた何かを詩音の席に置いて、しばらくそれを見つめた後、何事もなかったかのように教室を出て行った。残ったのは、いちごミルクの紙パック。
詩音が隠れていた前側ではなく、教室後方のドアから出て行ったので、透は詩音には気づかなかったようだ。
心臓がばくばくとうるさく音を立てている。
まさか、木谷くんがいちごミルクくん?
そう心の中で唱えてみても、どうしても信じられない。接点もほとんどないし、話したことだって片手で数えられるくらいしかないはずだ。
そんな彼がどうして、とおそるおそる教室に足を踏み入れ、いちごミルクの紙パックを手に取る。そして息をのんだ。
テストおつかれさま。
走り書きされたその字は、間違いなくいちごミルクくんのものだった。
でも、詩音が驚いたのはそこではない。おつかれさま、というメッセージの横。油性ペンで何かを書いてから、無理矢理消したような跡。ぐちゃぐちゃに消されていたけれど、そのメッセージは確かに読み取れた。
ずっと、好きでした。
瞬間、詩音は走り出していた。
廊下を駆け抜け、階段も一つ飛ばしに駆け降りて、玄関までたどり着く。そこでようやく、探していた赤髪のクラスメイトを見つけた。
「木谷くんっ!!」
詩音の声に弾けるように振り返った透は、目を見開いた後、詩音の手の中のいちごミルクを見やり、目を逸らした。
「こ、これ、木谷くんだったの……?」
走ったせいで息が切れてうまく喋れない。喉もからからで、声が掠れていた。
それでも必死に紡ぎ出した言葉に、透は気まずそうに目を泳がせる。それから少しの沈黙の後、低い声で呟く。
「…………気持ち悪かったなら、ごめん」
思いもよらぬ言葉に、詩音は慌てて否定する。そんなわけないじゃん、すごく嬉しかったからずっとお礼を言いたかったんだよ、と。
するとようやく透の瞳が詩音を捉えた。色素が薄いのか、薄茶色の瞳をしていた。まじまじと彼の顔を見るのは初めてかもしれない。少しの緊張を含んだその瞳に、詩音は優しく笑いかける。
「いつもありがとね、メッセージ。すごく励まされてたし、嬉しかったよ」
「…………ん」
「それから、えっと……」
いちごミルクくんに会ってお礼を言いたいと思ってはいたけれど、いざ会ってしまうとうまく言葉が出てこない。
ふと思いついて、先ほどもらったばかりのメッセージに、返事を書こうと思い立つ。カバンから購買で買ったいちごミルクのパックと、油性ペンを取り出す。透はそんな詩音を不思議そうに見つめていた。
「まだ見ないでね」
手元を隠しながら、油性ペンでメッセージを書き込む。そして、それを透に差し出した。
「はい、どうぞ」
受け取った透は、目を丸くし、それからじわじわと頬を染めていく。
初めて見るその表情に、詩音は思わず笑みをこぼしながら、「ね、嬉しいでしょ?」と透の顔を覗き込んだ。
いつもありがとう!
その言葉の横に、わざと見えるように消したメッセージ。それは。
「私も好きです、って……マジ?」
「こんな嘘つかないよ」
「だってほとんど喋ったことねえし」
「それは木谷くんも同じでしょ? 私は正体不明のいちごミルクくんのことを好きになって、そのいちごミルクくんが木谷くんだったんだもん」
だから、嘘じゃないよ。
そう言った瞬間、ずるずると背の高い透がへたり込んでいく。
「……宮原さん、ずるすぎ」
「え? ずるくないよ。それから、宮原さんじゃないよ」
目線を合わせるように屈むと、背の低い詩音は自然と透よりも目線が低くなる。上目遣いだなんて、そんなあざといタイプじゃないんだけど、と心の中で笑いながら小さく首を傾げる。
「私の名前は?」
「………………詩音?」
「よく出来ました。よろしくね、いちごミルクくん!」
そこは透くんって呼ぶところじゃねえのかよ! とつっこまれたけれど、詩音は笑って誤魔化す。
彼の低い声で紡がれた自分の名前が、思ったよりもずっと優しい色をしていたから。
照れ隠しだったんだよ、といつか伝えられる日がくるだろうか。
片手にいちごミルク、もう一方の手は互いの手と優しく重ねあって、二人はゆっくりと歩き出した。
口に含んだいちごミルクは、からからの喉には甘すぎたけれど、それでも今までで一番美味しく感じられるのだった。
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