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「なぜ、ここに」
「これを明け渡すためだ」
ジェラルドは早口で答えると、春子の肩を掴んだ。無意識か故意かは判断できないが、力を込められた指が肌に食い込み、肩に痛みが走る。
ぎりぎり、と。力は緩められることはなく、時間が経つにつれ、骨が砕かれると錯覚してしまうほど強くなり、春子は眉を寄せて耐え忍んだ。面紗で顔が隠れていたことに感謝した。このような人前で痛みに呻くなど、鬼無の姫として矜持が許さない。あと、ジェラルドなんかに屈するようでとても嫌だ。
「——失礼」
春子の耳元で誰かが囁いた。
まるで夜のような静けさを孕む声音だ。その時、今まで感じていた肩の痛みがなくなったことに気が付く。横目で見るとジュラルドの手首を節だった手が掴みあげていた。
「ジェラルド王子、姫が怪我をしてしまいます」
またもや夜の声が降り注ぐ。
春子がジェラルドの腕を掴む手から、肩へと視線を辿ると一人の青年が立っていた。
歳は三十程だろうか? ヴィルドール人は鬼無人と比べて、大人びいた容姿をしているので、もしかしたらもう少し若いのかもしれない。波打つ銀色の髪を首元でゆるく結び、野生的な真っ赤な瞳を持つ美丈夫は、厚布で作られた礼服の上からでも分かる筋肉質な肉体を持っていた。健康的な褐色肌の表面にはうっすらとだが多くの傷が刻まれており、彼が戦士であることを主張している。
しかし、一番気になるのは美しい面の左半分を隠すお面だ。鉄で作られているそれは、装飾品として着用しているというより、顔を隠すためにつけているようだった。
なんのために着けているのか不思議で、つい見つめていると春子の視線に気付いたのか美丈夫は微笑んだ。
「離せ! お前のような愚図に触れられるなど、吐き気がする!」
ジェラルドは大声で叫ぶと自分より上背のある美丈夫を睨みつけた。
美丈夫はその行為にさして気にした様子を見せず、言われた通り、すぐさま腕を掴む手を解くと春子に向かって、小さく会釈をした。
「お目にかかれて光栄でございます。私はアラン・シヴィルと申します」
差し伸べられた手に、春子はこの国の挨拶を思い出した。高貴な身分の女性は手の甲を差し出し、それを受け取った男性は唇を近づけるというもの。
おそらく、アランはそれをしたいのだ。
意図を読み取り、春子は右手を差し出した。
アランは膝を折って、体を小さくさせると春子の手を優しく握り、手の甲に顔を近づけた。唇は触れない。ただ近づけただけだとしても流れ落ちた銀糸が手をかすめ、春子は羞恥に頬を染めた。
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