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姫から話しかけてくるとは珍しい、とアランは微かに目を見開く。
「そんなに違いますか?」
「ええ、とても。鬼無は四つの季節が巡る国でした。今は夏も過ぎ、秋めいていることでしょう」
故郷に心馳せているのか、声は震えていた。
気丈に振る舞っていても、まだ十四歳の少女。親元を離れ、遠い異国の地で生涯暮らすというのは残酷といってもいい。
「……鬼無に帰りたいですか?」
アランの問いかけに春子はなにかを考える素振りを見せる。微かに顎をひき、視線を窓から床へと落とす姿は、表情は見えないが悲しんでいるように感じた。
「いいえ、嫁いだその時から私の故郷はこのヴィルドールとなりました」
淡々と、けれど力強い言葉だ。
(俺に本心を言えるはずもない)
その言葉が本心ではないことは理解している。思慮深い少女は己の言葉ひとつ、行動ひとつで両国の関係にヒビを入れる恐れがあるのを理解して我慢する道を選んだ。
(どことなく、母様に似ている)
己の心を殺す姿は亡き母とそっくりだ。
アランは心を殺し、結果、壊れてしまった母を思い出した。母は美しい人だった。父王に捨てられ、周囲から愛人と嘲笑われようが母親としてアランを愛してくれた。
だが、少しずつ歪んでいった。アランを愛しているといった口で「死にたい」と言うようになった。愛おしそうに撫でてくれた手で「お前のせいだ」と首を絞められた。父王と同じ瞳を見るたびに母は泣いた。
このままでは、春子は母と同じ道を辿ってしまう。
「姫、シヴィル領は自然豊かな土地です。きっと気に入ることでしょう。魔獣の生息地が近いですが、領民は皆、武の心得があります。姫の身の安全を第一にすることを約束いたしましょう」
「鬼……いえ、魔物に関しては私より民を第一にしてください」
「妻を守るのは夫の務めです」
「アラン様は私の夫である前にシヴィル辺境伯です」
それに、と春子は続ける。
「私になにがあろうと、鬼無がヴィルドールに攻め入ることはしませんわ。現に、私が死んでも鬼無は攻めてこなかったでしょう?」
ヴェール越しで春子が小さく笑う。とっくの昔に鬼無には春子の訃報が届いているはずだ。家族は悲しんではいるだろうが二ヶ月が経つのに進軍してくる気配はない。
つまり、娘が死んでも鬼無は鎖国を貫くつもりだ。
「だって、この婚姻は鬼無の総意ではなく、私のわがままで叶ったのですから」
どういう意味かアランが問いかけるが春子は微笑みを返すだけ。妙な空気の中、馬車はシヴィル領へと走っていった。
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