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「国王があいつを呼び寄せたからな」
「あいつでございますか?」
「お前の夫になる男だ」
「……夫?」
はて、と春子は小首を傾げた。春子の夫はジェラルドだ。初夜を拒絶されたとしてもその立場は変わらない。
だが、今の言い方では、まるであの馬車に乗る人物が春子の夫だと言っているようだ。
春子の表情が可笑しかったのかジェラルドは、ふは! と吹き出した。
「あの馬車には父が戯れに作った、兄と呼ぶのもおこがましい存在が乗っている」
ひどい言い方だ。片親とはいえ、血を分けた兄弟をそう言うなんて。
「まあ、そう悲観するな」
王族らしからぬ卑俗な言動に、つい顔が強張ってしまう。それを当惑したと思ったのかジェラルドは大袈裟な素振りで天を仰いだ。
「兄は、お前に負けず醜い。不細工同士、仲良くできるさ」
春子はその毒を笑顔で受け流した。
——それが励ましているつもりならば、母親のお腹からやり直した方がいいですね。品性というものが感じられません。
と言ってやりたいが口をつぐむ。
無言の笑みで対処し、早くこの部屋から出て行ってと心の中で念じた。言葉や態度に表せば、また罵詈雑言が出てくるので、この対処方法が一番、春子の精神を逆撫でせず済むのだ。
しかし、春子の願いが叶う気配はない。
「さあ、行くぞ」
春子は目を大きく見開いた。ジェラルドの言葉を反芻させ、言葉の意味を理解しようと頭を動かした。
行くぞ、というからには、ついてこいという意味だ。
けれど、春子の自由はこの部屋だけと決まっている。この部屋から出ることは一歩も許されていない。初夜失敗の翌日からずっとこの部屋にいるよう命じられ、今日で一月半。急におりた、外出の許可に戸惑いを隠せなかった。
(……いいえ、分かっております。ジェラルド様が先程、おっしゃっていましたもの)
「そのお兄様と顔合わせのためですか?」
「そうだ。父は翌日と言っていたが時間が惜しい。お前を連れて今日中に出ていってもらわねば」
「今日?」
春子は自分の耳を疑った。義父である国王が前にジェラルドの兄は、遠く離れた辺境の地に領土を持っていると言っていたのは覚えている。その地は自然が豊かではあるが、魔獣という恐ろしい生物が出没するそうだ。
その土地から、このお城まで、どれほどの日数がかかるか春子は分からないが一日二日でたどり着ける距離ではないのは確かだろう。疲れている兄を労うどころか、自分の妻を押し付け、到着直後に追い返すなど、本当に目の前の男がヴィルドール王国の次期王様なのかと春子は純粋に疑問に思う。
「鬼無国から持ってきた荷物をまとめておけ。後日、シヴィル領に送っておいてやる」
「……ええ、承知いたしました」
様々な罵倒用語で春子の頭の中は埋め尽くされている。この中の言葉を口に出すことができれば、どれほどすっきりするだろうか。
しかし、口にはけっしてしない。春子は鬼無の姫であり、この婚姻は春子の我が儘がきっかけなのだ。どんな理不尽でも、今は耐え忍ぶべきなのだから。
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