飛花

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洗濯機の音に呼ばれ蓋をあけると、白い花びらが無数に散らばっていた。少しもめでたくないを手に取り、嘆息する。花びら、否、ただの紙切れである。それも、ティッシュのような日常の塵芥ではなく、もう少し硬質の人工的なほう。少しだけ呼吸を整える。 「ちょっと、たいちゃん。こっちにおいで」 長男を呼ぶが、こちらに来る気配はない。 「いま、ジョージみてるからダメー!」 長男の声が返ってくるとともに、リビングから『おさるのジョージ』の音が聴こえる。クリスマスの日にジョージがサンタの衣装を着て、友達の動物たちへプレゼントをあげるお話だ。長男と次男はこのお話にはまっていて、いったいどこに惹きつけられているのか、クリスマスシーズンでもないのにここ数日こればかり観ている。 現金なもので、いつもなら目を離すと兄弟喧嘩をはじめる子供たちも、このときばかりはテレビを観て静かに肩を並べ大人しくする。その間に、母は急いで洗濯物を干すのだ。それをやり遂げられるか否か、それこそがその日母に平和な夜がおとづれるかどうかの鍵を握っていた。ここでつまづくと、その後の寝かしつけに確実に響いてくる。それは経験と本能で理解していた。 「まずはこっちへおいで。ジョージはあとでいくらでも観れるから。」 「ちょっと・・・お母さん、ダメだよ!」 「いいから!来なさい!!」 つい口調に力が入ってしまった母に長男は観念したのか、首から上はテレビの方向に引っ張られながらも、重い足取りでとぼとぼと母のもとへやってきた。 「ねえ、ジョージいっかい止めてよぉ。」 テレビから母へ顔を向けた途端、長男は母が手に持つものに気づき表情が崩れる。 「あ・・・。うあ゛あ゛あ゛あぁぁ!!!」 これから起こるであろうことを想像してその場に泣き崩れた。 「たいちゃん。怒らないからよく聞いて。」 「だってぇ、あ゛あ゛あ゛ぁぁ・・・」 「お母さん、怒ってないよ。まずはお話を聞いて。」 「お母さん、まえも言ったよね。服を洗濯機にいれるときは、ポケットの中のものを全部出してねって。覚えてる?」 「おぼえて・・るぅ。」 「覚えてるの。じゃあ、なんでこうなったか、わかる?」 塵紙を一つ差し出しながら、長男に問う。 「しらない!ぼく、わるくない!!」 「たいちゃん、怒らないよ。落ち着いて」 「おこるよ!おかあさんが、わるいよ!!」 大声を上げて母の手を振り解き、長男はリビングの方へ走っていった。 まただ。また、こうなる。やろうとしてるのに、いつも噛み合わない。母だってわかっている。長男はまだ4歳。一度言ったことをすぐに実践できるなんて思ってない。叱るつもりはなかったし、叱ったつもりもない。ただ、少しずつでも理解してもらえるよう、言葉を崩して、表情をやわらげて、伝えたかっただけなのだ。何度だってそうする覚悟はあるし、心からそうしたいと思っている。けれど。 視界に入る無数の塵紙を無意識にイチニサン...と数え、どっと肩が重くなった。嗚呼、なぜだろう。平穏はこんなにも遠い。 夜、長男は泣き疲れたのか、思いの外すんなりと寝てくれた。目標の時間よりは少し遅い就寝ではあるけれど、比較的平和なほうだ。子供たちが寝たことを入念に確認し、そっと寝室をあとにする。音を立てぬよう、ゆっくり、ゆっくりとリビングへ移動し、そのままソファーになだれ込んだ。暗闇の中で、今日の長男とのやりとりを思い返し、いつだったか読んだ育児本の文章が浮かぶ。 "叱るのではなく、教えるように。穏やかな心であることがきちんと子供にも伝わるように。子供と同じ目線にまで屈んで、わかりやすい言葉で、はっきりと伝える" そんなこと、わかってる・・・。 声にならない声が漏れる。 実際、やってる。実践しては、これも違う、次はこうしてみようと、試行錯誤し、工夫している。それでも、結果はいつも同じ。 私も悪いのだ。今日に限って、確認を怠った。まえに同じことがあってからポケットの中身をチェックするようにしていたのに、油断した。いつもより夕飯の支度が遅くなったから、いつもより保育園の迎えに行くのが遅れたから、会社から帰る道が混んでいたから、退社直前に上司が話しかけてきたから。理由を探せど、けっきょく行き着くところはジブン。誰かのせいにしようにも、登場人物が少なすぎる。誰も悪くない。もちろん、たいちゃんだって悪くない。私が、悪い。 朝、子供の声で目を覚ます。そこでようやく、自分がそのままソファーで寝てしまっていたことに気づいた。 その日は、昨日よりも早い時間に保育園に到着した。先に2歳児の教室行き、次男を回収したあと長男のいる教室へ向かう。教室の扉をあけると、担任のゆみ先生が笑顔で迎えてくれた。 「あ、伊藤さん。おかえりなさい。」 ゆみ先生は、いつも明るい笑顔がトレードマークで、長男が1歳の時にクラスの副担任として初めて会った。4歳児クラスでは主担任となり、長男はすごく喜んでいた。私も、子供をとても可愛がってくれるので安心して預けられる。 「あれ、たいしはどこですか?」 教室の中を見渡すが、長男の姿が見えない。先に教室に入った次男が「たいちゃん、たいちゃん」と言いながらきょろきょろしている。 「たいちゃん、ついさっき『おしっこが出る〜!』と言ってトイレに行きまして。」 私が、あぁそうなんですね、と相槌をうつと、ゆみ先生がそのまま続けた。 「そういえば、お母さん。昨日、たいちゃんから何かもらいませんでした?」 「いえ、特になにも」 「あれ、そうなんですね。昨日、たいちゃん『おかあさん、びっくりするぞー』と張りきっていたので。てっきり」 「なにか渡そうとしていたんですか?」 「そうなんですよ。あ、今日も同じものをつくっていたので、きっと今日もらえるんじゃないですかね。たいちゃんに口止めされているので、わたしからは言わないでおきます。」 「えー、なんでしょう。わかりました」 ちょうど、長男がトイレから戻ってきた。昨日の不機嫌が嘘のように、おかあさーんと言いながら抱きついてくる。保育園から家に向かう道中、「おかあさんになにかくれるの?」と聞いてみたが、長男は「内緒だよ」とはぐらかす。 結局教えてもらえず、"もやもや"を抱えたまま家に到着した。玄関を開けると同時に、育児と家事のルーティンワークがタイムアタックさながら始まっていく。 子供達の靴を脱がして揃えさせ、洗面所で爪の中まで手を洗わせる。おやつを取り出し、ダイニングテーブルに並べる。子供たちがそれを食べている隙に、炊飯器でお米をセット。おやつが食べ終わる頃に夕方の教育番組がはじまる。子供たちがそれを観ている間、お風呂を掃除し夕飯の準備に取り掛かる。子供たちが教育番組に飽きてくると、おのおのが好きな遊びを始める。時折、兄弟喧嘩がはじまる気配を察知し、家事の手を止め、仲裁に入る。2人が落ち着いたのを見計らって、夕飯の支度を再開。並行して、お風呂のスイッチも入れておく。 いいぞ、ここまで順調だ。手応えを感じていると、お風呂が沸いた音楽が聞こえてくる。その頃には、玄関の前までの"もやもや"もすっかり忘れていた。 夕飯の支度がなんとか終わり、お風呂の時間。まだ遊びたそうにしている子供たちを脱衣所に誘導し、服をつぎつぎ脱がせていく。脱がせたズボン見て、「あ、ポケットの中」と気づく。 あぶないあぶない、とズボンのポケットに手を伸ばすと何かが手に当たった。それを取り出し、見てみると、折り紙でおられた白いお花だった。よく見ると、花の真ん中には大きさが不揃いな文字で「おかあさんへ」と書かれている。それを見て、横にいた次男が指をさして言った。 「あ!ぷれぜんとー!!」 きょとんとする私をよそに、様子を見ていた長男が、「せいかーい!!」と言いながら手を叩きはしゃぎはじめた。 そこで私は、ようやく気づく。 あぁ、私は何を見ていたんだろう。 思わず子供たちを抱きしめ、「ごめんね、ありがとう」と呟いた。 私の日常は、確かに子供たちと噛み合って、そこにあった。私と子供たちは、きっといつだって、同じ方向を向いて、同じものをみていた。それなのに私は、1日1日を着実に確実に過ごすこと、昨日が今日、今日がきっと未来へと通じているという実感を求めるがあまり、ひっそりと地面から顔を出し一生懸命に伸びていこうとする新芽を見ていなかった。 母親が子供にしてあげられることなんて実は全然少なくて、本当はもっとずっとシンプルなのかもしれない。私はただ足元をじっと見て、時折水をやりながら、芽が伸びてぽつぽつと花ひらくそのタイミングを決して見逃さず、ひとつひとつを手に取っては花の形や色を「きれいだね」と言って伝える。花びらの1枚1枚を、忘れないように、しっかりと心に留めておく。それくらいのことでしかなくて、それはきっと、私にしかできないことだ。 気づかぬうちに折り紙の花を強く握ってしまっていたことに気づき、しわを軽く伸ばしてから着ていたエプロンのポケットにそっとしまう。そしてまた、子供たちぎゅっと抱きしめた。
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