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3 いくつかの規則
デラという女性を紹介されたのは昼過ぎだった。
彼女は洗濯室で生乾きの洗濯物にアイロンをかけている最中だった。
「彼女はデラ。僕が子供の頃からここで働いてくれている。洗濯、料理、掃除や買い出しが彼女の仕事だよ。ベンは僕の秘書兼男性使用人ってところかな。掃除や買い出しは彼も手伝ってくれているよ」
人と通りダニエルに紹介すると、今度はデラの前で膝をつく。
「デラ、彼はダニー。今日からうちで働いてくれることになってる。掃除やアイロンがけの仕方を教えてあげて」
デラに話しかけるアンバーの声はとても優しい響きだ。
デラはダニエルが想像したよりは若い女性だったが片足が義足だった。
だからだろう。彼女は椅子に座ってアイロンがけをしている。
「デラは足が悪いけれど日常生活には支障がないから普通に接して。でもあんまり重いものを持たせたりはしたくないんだ。ってことでダニー、屋敷の掃除は張り切ってくれ」
アンバーはこっそりデラのことを告げたかと思うとおもいっきりダニエルの背を叩いた。
見た目によらず力があるなと驚いたが、彼はその場をデラに任せ、出ていってしまった。
「アンバー様は相変わらず元気なお方ですね」
デラはくすくすと笑う。
「いつもああなのですか?」
「ええ」
彼女は何事もなかったかのようにアイロンがけを続ける。
「僕はなにから始めたらいいでしょう?」
仕事を与えられたのだから働かなくてはいけない。
一宿一飯の恩とは言うが、あまりに好条件な雇用契約までもらってしまった。しっかり働いて恩を返さなくてはいけない。
「洗濯は私の仕事ですから……掃除を手伝ってもらいましょうか。通いの庭師もいるのですが、手が空いたときは庭掃除をすると彼の負担が減ります」
「庭師?」
「クレムという名の老人です。薔薇の世話が上手なのでアンバー様のお母様が大変気に入られていた庭師です」
アンバーが冗談のように口にしていた「天国の母上」だろうか。
思い返せば初対面の日に家族はいないと口にしていた。
「この屋敷にはアンバー様の他はベンとデラしか住んでいないのですか?」
「ええ。あなたが来たから少し賑やかになると嬉しいわ」
デラは柔らかく笑む。
なんというか包容力のある女性といった印象だ。母性の塊だとかそういったものなのかもしれない。
アンバーは彼女を大切にしているようだった。もしかするとただの使用人ではないのかも知れないと勘ぐってしまう。
「この屋敷ではいくつかの規則があります。アンバー様はああ見えて繊細なお方で、少々拘りが強いのです」
デラは優しく説明を始める。
「まず、アンバー様の寝室には決して近づかないでください。私とベン以外の人が近づくのを嫌います。洗濯は私に任せてください。下着類は私が、他の衣類はクリーニングに出しています。リネンも業者へ外注しています」
個人宅なのに衣類の殆どをクリーニング業者に外注しているということに驚いたが、この屋敷の規模だ。アンバーは本当に金持ちなのだろう。
「アンバー様は繊細なお方で、気分ムラが激しい時期があります。ここ数日はかなりナイーブになっていますので……塞ぎ込んでいるときはあまり近寄らないように気をつけてください」
「元気そうに見えたけれど、普段はもっと元気ということ?」
「あなたの前だから元気に振る舞っているのかもしれません」
そうだとしたら気を使わせてしまっているなとダニエルは思う。
「ハンカチ程度でしたら私がここでアイロンをかけますが、大きなものは業者に任せています。なので、洗濯室は私だけで間に合います。問題は、お掃除です」
「ああ……このお屋敷は広いから」
「はい。アンバー様は無理に全部屋掃除しなくてもよいとおっしゃいますが……やはり少しは手入れをしないと老朽化が進みますから」
一体何部屋あるのか。
ダニエルはうっかり道に迷わないか不安になるほどこの屋敷は広い。
「本館を使用して生活していますが、屋敷には東館と西館があります。ここは全くと言っていいほど手が付かず……人ではあればあるだけ嬉しいのですが……好奇心の強い使用人ばかりが来てしまい、解雇される人が後を絶たず、アンバー様もすっかり諦めてしまっているところだったのです。なので……あなたが来て下さって本当に嬉しいです。どうか、屋敷の規則を厳守してくださいね」
デラは力強くダニエルの手を握った。
「あ、はいっ……」
勿論、アンバーには恩がある。
そんなに難しい規則ではない。プライベートに踏み込みすぎるなというだけの話だろう。
少しばかり怪奇小説にでも出てきそうな規則だが……。
そう考えると、好奇心が刺激されてしまった歴代使用人達の気持ちも理解出来てしまう。
ダニエルは必死に思考を振り払う。
折角差し伸べられた手だ。ここを追い出されてしまっては寝るところも食べるものも困ってしまう。
アイロンの電源を落とし、畳んだハンカチをカゴに入れるデラは屋敷を案内しますと歩き始めた。
義足を感じさせない美しい姿勢と動きに少しだけ驚き、それから不躾に見てしまっていたと反省する。
好奇の視線を向けられる辛さは身に沁みているはずなのに、同じことをしてしまった自分を恥じた。
そして、見た目からは想像出来ないほど早足のデラに必死について歩いた。
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