ある男の喜び

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「ええい、まだか」  油も乏しく真っ暗闇よりは多少明るい程度のいささか心許ない灯りが灯る部屋の中、男は一人ウロウロと忙しなく歩いている。  いや、歩いていると言うよりも同じ場所を行ったり来たりと徘徊していると言った方が正しいのかもしれない。  ともかく男の落ち着かない心を反映するように、動いているのは確かだ。 「殿、落ち着きなされ。奥方様は初めてのやや子を産むのですよ。刻がかかっても致し方ありません。我々にできるのはただただ無事を祈るばかり、ささ、殿はどんと構え落ち着きなされ」  男、殿と呼ばれた者はこの屋敷の主人にして貧乏藩の藩主。元を辿れば大きな藩のお家に辿り着くらしいが、生まれてこのかた、質素倹約。真面目に仕事を行うべし。と実直にしか生きてこなかったのだ。  そんな己がまさかお家のためとはいえ、妻を迎え、間もなく父になるのだ。数少ない家臣の言葉と言えど、無事に身が二つになり、双方共に健やかな姿を見るまではどんと構えてなど居られるか。  内心では言い返しつつも、言い返せばこの家臣はおそらくのらりくらりと倍にして言い返して来ることが目に見えているので、大人しくその場であぐらをかいて座った。  が、心映えはどうしても出てしまうらしい。歩かない代わりに足が小刻みにふるえるのだ。  流石に家臣もその心はわかるようで、これについては何も言わずただ困った子供を見るような表情で笑むのだった。 「殿、お子が産まれましたよ!男の子です!」  これまた数の少ない女中が、慌てて子が産まれたことを知らせてくれた。確かに、狭い敷地内夜であることも含めると、子の泣く声が元気よく響いてくる。  男は居ても立っても居られず、素早く立ち上がり妻と子の居る場所へと駆け出した。 「はぁはぁ、や、やや子が産まれたと聞いたが⋯⋯」  狭い敷地内でも慌てて走ると息が切れるらしい。それとも妻が心配で鍛練を怠っていた証拠だろうか。どちらにせよ、乱れる息もそこそこに二人の様子を一目見ようと中へ入る。  ちょうど後産も終えたらしい。子も湯で洗われたようで木綿の産着に包まれて穏やかに寝ている。 「殿⋯⋯私たちの子が無事に産まれました 」  産んだ後で疲れているだろう妻が、産婆が答える前に弱々しくもしっかりと伝えてくれた。痛かったろう。辛かったろう。それでも嬉しいと伝えたいものの、いざという時にふるえる唇が忌々しい。 「奥方様、あとはババや乳母が行いますので、もうおやすみになられても大丈夫ですよ」 「⋯⋯そう。もう寝ても問題ないのなら少々休ませてもらおうかしら。殿、私は少し休ませてもらいます。でも、その前にやや子をどうか抱いてやってくださいな」  きっとこの子も父に抱かれるのを待っておりますよ。疲れからうつらうつらと瞼が降り始めそうな妻が言った。  その言葉を聞いて、産婆は男に子を渡そうとするがいつまで経っても男の腕は上がらない。不思議に思って産婆は外の昇り始めた太陽を頼りに、男を見ると何と男は震えているではないか。 「殿?大丈夫ですよ。このババがしっかりとお支えします故、お子を落とすなど心配要りませぬよ」  これまで取り上げてきた子の父親たちの振る舞いを思い出しつつ、伝えると男は緩やかに頭を左右に振った。 「違う。違うのだ。私のような真面目と倹約だけが取り柄の貧乏藩の藩主でも、父親になれたのだと⋯⋯嬉しゅうて、妻とやや子が無事で安心して喜びで震えが止まらんのだ」 「左様ですか。奥方様もお子も幸せ者でございますね。お父上がこれ程歓喜でお迎えくださって」  でも、奥方様が休まれる前にちゃんと抱いているところを見せてやれ、と子の乳母になる者や女中たちの手を借りて何とかふるえる身体で我が子を抱いた。  柔らかくて温かく、まだ猿のような顔だと思いつつも、きっと妻に似た良き男の子になるだろう跡取りの誕生に男は、しばらくふるえたままで子を眺めるのだった。  人は過分な喜びを得るとふるえるものだと、男はこの時しみじみ思ったのだと、後に己の日記に記し、未来の子孫が見つけて微笑ましいと思ったのはまだまだ先の話だ。
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