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杏奈は雄一郎の方を見遣った。クラブを無くすことを、事前に聞いていなかったのだろう。目を丸くしている。
しかし、すぐに冷静な顔に戻った彼は哲也に詰めよった。「歯を食いしばれ」そう言って、腕を大きく引き、会長の頬を平手でひっぱたく。
「アメリカ哲学者のデューイだ。哲学や知識は役立つ道具である。だから絶えず変化し、改善されなければならない。お前にとっては今、さっきの言葉が真理なんだろう。でも一人で何でもできると思うなよ!
自力で産まれてきたんじゃない。母ちゃんが産んでくれたんだ。死ぬときは孤独かもしれないが、誰も一人で生きてきちゃいない。お前が塾講師で教えたから、教え子が希望の中学に行っているんだろ。教師にくわえて友人、兄弟。それから水道局、電気会社、郵便配達員、ゴミ清掃員。皆がいるから生活もできてんだ! 甘ったれるな」
静まり返っているウォーキング参加者の前で、崩れおちた哲也の目に生気がもどっていた。
「お前・・・いつデューイなんて勉強したんだ」
「これだけお前と付きあいが長ければ、一つくらい嫌でも覚えちまうさ」
「確かに人生は単独では成り立たないかもしれない。でも支えあおうとした恋人で、俺は失敗したんだぞ」
「あの子とは合わなかっただけだ。次に巡り合うのが運命の人かもしれない。めそめそと。もう一発、気合入れとくか?」
「やめろ。お前はきっと呂布の生まれ変わりだ。さっきの一撃で、さまよっていた俺の健全なる魂は帰ってきたよ。十分だ。次ひっぱたかれたら幽体離脱しちまう」
哲也は雄一郎に腕を引っ張り上げてもらい、立ち上がった。
両手を上げて、左右に振る。
「皆様。えー、前言撤回でございます。しばらくクラブは継続します」
ウォーキングが終わり、帰りの電車内。
杏奈はスマートフォンで、理央へのメッセージを打っていた。傍らには夏希が座っている。『四月まで何している?』『今日は予定ある?』打っては消しをつづけ、なかなか送信ボタンを押せない。
一歩踏み出して、簡易な言葉を投げたいのだが難しい。そうこうしていると、画面にメッセージの受信通知がきた。
理央からだ。
『受験も終わったし、最近暇だね。杏奈はどうしている?』
杏奈は夏希に、親友から連絡が来ましたと伝えて、返事を入力する。笑顔を抑えられない。
すぐに送信できた。
駅に着いた電車がドアを開く。
初春の香りをまとった風が、吹いてきた。
〈 了 〉
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