1 浅草を歩く

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 駅を出た杏奈は、陽射しに目を細めた。  吾妻橋(あづまばし)を渡って、隅田川からの冷たく澄んだ風を浴びる。哲也は白地に赤でTWCと書かれた、手作りの腕章を付けようとしていた。哲也ウォーキングクラブの意味だ。つけ終わった後、口を開く。 「えー、左手に見えますのが全長二十三キロあります隅田川です。川と言えば、鴨長明(かものちょうめい)方丈記(ほうじょうき)。『ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず』。世の無常さを表現した名文です。その川がこの隅田川──かどうかは知りません」 「知らんのかいっ」 夏希が隣の杏奈に聞こえるくらいの声量で、突っ込みを入れる。 「驚くことに、今から二千五百年前の古代ギリシャにも鴨長明と同じ考えを持つ人がいました。ヘラクレイトスという哲学者です。彼は『同じ川に二度入ることはできない』という言葉を残したとされています。  意味も、全ての物は変化していくという事。しかし二人の生きた場所は西洋と東洋で、時代も大きく離れています。にもかかわらず、同様のことを思い浮かべたのは興味深いですね。揺るぎない真理なのかもしれません」  杏奈が後方を見ると、用心棒のように雄一郎が周囲を確認して歩いていた。橋を渡りきり、大通りを真っすぐ歩く。 「春のうららの隅田川と、滝廉太郎が歌詞をつくり、落語の人情噺や浮世絵の題材にもなっている。我々の文化活動にも影響が大きい隅田川。大いなる自然は、人に深い思想をもたらす存在なのでしょう」  うまい事まとめた、と感に堪えない顔をして哲也は歩き続ける。  皆まだ二十分程度しか歩いていないので、遅れる者もいない。道路をへだてて、スカイツリーが悠然とそびえ立つ。編み目模様の鉄骨が、天まで勢いよく伸びていて、杏奈はその輝きに圧倒された。 「てっちゃん。スカイツリーに関しての知識は披露してくれないの?」  夏希が哲也に問いかける。 「僕は人の思想に興味はあるけど、物には無いんですよ。文献を読んでも、目から両耳に情報が抜けていく。スカイツリーについて知っていることは、日本で最も高い構造物。今までの電波塔である東京タワーの二倍近く高い、くらいですかね。  ただ、地震大国の日本で情熱と技術をもって、この高さの塔を打ち立てた人々を誇らしいと思います」  スカイツリーの前を通り、言問橋(ことといばし)に差し掛かる。折り返して渡る墨田川は、やはり風が心地良い。  程なくして浅草寺が見えて来た。  抜けるような晴天の下、艶やかな着物で通りを歩く人がちらほらいる。道に華やかな色どりが出てきて、杏奈は心が弾む。 「浅草寺に到着しました。休憩しましょう。三十分後にここへ戻ってきてください」  本堂前で会長が皆に声をかけ、それぞれがばらけた。  杏奈は夏希と境内を回る。雷門や、風神雷神をスマートフォンの写真に収め、二人でベンチに腰掛ける。杏奈はリュックから水筒を取り出して、水を飲んだ。  そこに哲也がメンチカツを二つ持ってやってきた。両手でつかんで杏奈達の前で、ぶらつかせる。ソースと油の匂いが鼻孔をくすぐった。 「くれるの? 哲君、珍しいじゃない」  夏希が驚いた表情をする。
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