1 浅草を歩く

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「意外でしょうけど、お二人に買ってきました。先月に塾講師のバイトを首になったから、最後の奢りだけどね」  哲也は二人にメンチカツを渡した。手を目元にあてて、泣いている真似をする。  後から来た雄一郎が忍び笑いをしながら、杏奈の隣に座った。 「佐藤さん、聞いてくれよ。うちの会長が首になった理由。小学五年生が相手の理科でやらかしたんだ。太陽とか惑星の授業だっけ。  そこで『人類の前には、恐竜が地球の君主だった。だが、彼らは隕石の衝突で滅びた。人類だって永遠に生きられる訳ではない』って言ったんだって」  杏奈と夏希はメンチカツに齧りつきながら、頷く。 「そこで哲也も止めとけばいいのに。それは嫌だ、と反論する子供に『太陽だって物体だから何十億年後かには消滅する。陽の光が無くなったら、氷河期が来て生きてはいけない』と論破しました。子供はパニックにならなかったか?」 「いや。呆然とはしていたが。いつもうるさい男子が黙りこんで、授業がやりやすかった」 「そして翌日の夜に、その男子の父親から電話があった」 「そうなんだよ。夏希さんに慰めて欲しいくらいだ。初めは塾長が電話応対していたんだけど、らちが明かない。講師に代わりますって、受話器を渡してきた時の奴の顔ね。まさに浅草寺(せんそうじ)の雷神。体からも怒りの雷光が何本もほとばしっていた。  そして、俺が電話にでた時のお父様の声は、地底深くにいるような冷たさ。『昨夜、帰宅したらうちの子供がさめざめと泣いていました。どういった授業をなさったんでしょうか』って。俺は氷河期が来たように、背筋が凍ったよ」  雄一郎は普段、会長の企画や無茶ぶりに忍耐強く応えているので、この話が痛快で堪らないようだ。くくくと低く笑っている。 「こっちが『反省しております。以後気を付けますので』と殊勝な言葉を出しても、一向に引いてくれない。先生はどういった意図で、人類滅亡の話をしたんですか。子供の心へ与える影響を考えていますか。  今後は具体的にどういった授業をされるのでしょうか。理詰めで、俺を攻め立てる。降参です。白旗でございます」  哲也が右手で旗を振る仕草をする。 「小さい頃から人生の終わりを意識すれば、日々成長できるのにねえ」 「お、出たね。哲学のてっちゃん節。でも小学生に終末論を語っちゃダメでしょ」  夏希はメンチカツを食べ終わり、笑顔を浮かべる。手についた油をティッシュで拭った。 「まあ、塾講師は時給が高いんだけど予習も必要だ。でも予習時間のバイト代はでない。授業が終わっても、自習室の生徒から質問があったら対応しなきゃいけない。割に合わない仕事だったし、ちょうど良かった。こっちから辞めてやろうと思っていたんだ」 「嘘をつけよ。受け持っていた受験生から、手紙をもらって泣いてたろ」  間髪入れずに、雄一郎が口を挟む。 「いやいや。子供から『先生の授業が大好きでした。お陰で希望していた中学校に通えます』なんて手紙をもらってみ。感涙にむせぶでしょ。あー辞めたくなかった。塾長の器の小ささよ」  雄一郎が腕時計の液晶画面を指して「休憩時間終了だ」と伝え、四人は本堂前に向かった。  ウォーキングクラブの一同は浅草寺をでると、飲み屋の並ぶホッピー通りをすすむ。外の椅子に老若男女が座って、酒を酌み交わしている。昼から飲む解放感からか、皆一様に朗らかだ。活気ある光景に惹かれるのか、動画を撮りながら歩く外国人もいた。  雷門通りを歩き、浅草駅に到着した。 「本日は哲也ウォーキングクラブ、略してTWCにお付き合いいただきありがとうございました。これにてお開きでございます。次回の開催はまたメールで連絡します」  雄一郎が参加者の人数を確認した後、哲也から号令があって解散になった。
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