逃げるに限る

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逃げるに限る

 師匠の疲労は理解できるものの……1人になると途端に不安に襲われる。 「やっぱりダメです、出てきて」  エルディーナは師匠の真似をしてポケットに向けて杖を振った。 「師匠出てこい」 「あぎゃあ!!」  杖をふる勢いが良すぎたか、呪文を間違えたか。師匠が放物線を描いて吹っ飛んで防御壁に激突。 「二度とわしに向けて魔法を使ってはならん!」  その声を掻き消すように、苛立ちを増した咆哮と炎が二人を襲った。 「それっ、もっと右じゃ」 「う……」  前だの戦えだの、小さくて甲高い声がエルディーナを鼓舞……いや、叱責する。だが、エルディーナはぴくりとも動かない。目の前には怒れる龍がいる。ギョロリとした目玉に射すくめられてしまったのだ。  黒い魔導士用ローブがはためく。夜風にはためいたのであればいくらか艶っぽくもあるが、龍の連続咆哮ではためいたのだ。いわゆる危機的状況である。 「はよう倒せ! 弱点を突くのじゃ!」  何度目かの師匠のポケットからの雄叫びでようやく弟子は我に返った。 「あ、えと、師匠……弱点、ですね。えっと、わたくしのリサーチでは角が弱点とのことなのでアレをへし折ればいいのかなと思うのでやってみます」  どうやって折るのだそもそも迂闊に近寄ってはならん! と師匠は慌てて叫んだが、エルディーナが大きく飛んだのでその声は掻き消された。くどいようだが、師匠がいるのは、エルディーナが纏っているローブの、内ポケットである。 「ぐえええ……」 「師匠、あの龍のせなかに飛び乗ろうと思います」  足元に魔法陣を描き、詠唱する。魔法陣が強烈に白く光り、彼女の体は宙に浮く。 「ふむ、浮遊魔法か」  今度は宙に浮いた自分の足の下に魔法陣を呼び出し、その上に立つ。空中で自在に動けるように、自分の足もとに舞台のような板を召喚したのだ。 「参りますわよ!」 「待て待てまてぇい! どうやってあやつを倒すのじゃ! 龍族は倒すのも敵に回しても大変じゃぞ」  弟子はお構いなしで、杖をふりまくる。ばちばち、と火花が散り魔法現象が飛び交う。龍も当然応戦する。 「ええい! こう暗くては敵の動きもエルディーナも見えぬ!」  ローブの胸ポケットがぴかりと光り、宙に魔法陣が出現する。 「落ち着くのじゃ、エルディーナ」  師匠はギョッとした。  弟子の、濃い紫の目は大きく見開かれ、いつもは瑞々しい果実のようにぷるんとしている唇はかさかさに乾いて半開き、肌理の細かい陶器のような肌は血の気が失せて青ざめている。誰もが一目見て惚れると言われる三国一の美貌が台無しである。台無しどころの騒ぎではない。いつも愛くるしい表情や仕草の彼女の顔から表情が抜け落ちたため、彼女の美貌は作り物の彫刻の如くになり、どこか恐ろしさを感じさせる冷徹な美しさへと変質してしまっている。  そして彼女の足の下にはーー。 「これっ、しっかりせよ! 魔力の垂れ流しも止めよ!」 「え?」 「え、じゃないわい。足元を見てみよ。大量に殺戮しおって……」  師匠は、エルディーナに見えないところで顔を顰めていた。  戦闘したことで、彼女の中に流れる「忌まわしき血」が覚醒しつつある。  冷酷な魔法使いになってもいけないし、冷酷なハンターになってもいけない。そして魔力が暴走することのないよう、訓練を積み、場合によっては師匠の力で魔力を封印しておかねばならないだろう。 「エルディーナ、帰るぞ」 「で、でも、まだ古代龍退治が……」 「そなたの魔力垂れ流しに戸惑ってある。今のうちに逃げるのじゃ」 「はいっ」  遠ざかるエルディーナの背中を、古代龍はじっと見る。彼にもわかる。 ーー忌まわしき血を人間が受け継いでいたとは……  あの血が覚醒したらこの土地は灰になる。生き物は全て死滅する可能性すらある。だがあの伝説の老魔道士ならその最悪の未来を回避できるだろう。  「師匠……頼みましたよ」  ー了ー  
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