階段の世界

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そこは狭い踊り場だった。そう認識できた理由は、視界一面に広がるセピア色の壁と、上下に伸びる階段が見えたからだ。 篠月 祠は、なぜ自分がここにいるのか全くわからなかった。 部活を終えて、クタクタの体を電車に乗せ夕食が待っている自宅へと帰る途中だったように思う。 踊り場の窓は大きかったが、すりガラスで眩しい光を取り込んではいたものの、外の景色は全くわからない。開け閉めができる物ではなくただ嵌め込まれているだけだ。 「どこまで続くのよ、この階段は」 突然、祠の世界に他者の声がした。 息を切らして、ゼェゼェと言いながら下から登ってくる女がいた。手すりにすがり、体力もそろそろ限界といった所。 「あの!」 祠は思わず声をかけた。思ったより大きな声が階段に響いた。 「なっ、何よあんた」 祠の声に驚いて返ってきたのは尖った声だった。祠は声をかけたことを怯んだ。だが、続けた。 「ここはどこですか?」 「知らないわよ」 中年の女性は吐き捨てるように言い、踊り場で膝をつき座り込んだ。 じゃらじゃらとした貴金属が彼女の経済力を示していた。いや、本人ではなく彼女を庇護する配偶者のものかも知れない。 「この下には、何かありましたか?」 「ずっと階段よ。それと、たまに非常口があったわ」 祠は上に続く階段を見上げた。そして、同じように下を見る。 「上に何があるんですか?」 祠は女性にそう聞いていた。今いる場所から下に降りるより、上の方に出口があると考えてしまうのは日常生活でのセオリーだ。 「…………」 女性は、視線を逸らした。その沈黙は祠に何かしらの手応えを感じさせた。 「ここから、出たいの。出たいから登ってるのよ」 「え? 途中に非常口があったんですよね? そこから外に出れなかったんですか?」 非常口があるのならば、そこが出口であるのは明白。なのに、この女性は外へ出なかったらしい。 「上に、何かあるんですか?」 祠はそっと質問を変えた。この階段の上に、女性の求めるものがあるのだろう。そして、ひょっとしてそれは祠にも当てはまるかも知れないと期待した。 だが、女性は質問に黙り込む。 「…………」 渋い顔だった。じっと見つめる。その表情は怒ってるような不貞腐れているような印象を抱かせた。顔は間違いなく年齢を刻んでいるのに、表情は子供がするそれに見えた。 人は、どれだけ時が流れても完全には大人になりきれないのかも知れない。祠よりも、もっとずっと年上の中年女性のこの表情にそう思えた。 沈黙が落ちた二人の耳に、かつんと足音が降り注いだ。上からだ。 自然と段上を見上げる。足音は、二つバラバラに響いた。 「……ねぇ、本当にこっちかなぁ?」 「多分そうだよ。だって、タワーから横道に入ったでしょ? じゃあ、外に出るには下に降りた方がいいでしょ?」 明るい声が響いてきた。その声は澄んでいて、若い。 「あ、やった。誰かいた!」 「下に行くのが正解ってことかな?」 二人は制服姿だった。高校生か、もしくは中学生か。白を基調としたセーラー服は涼しげで見た目にも爽やかだ。 踊り場で止まっていた祠と女性を見ると、早足で階段を降りてくる。 「あの……、ちょっとお聞きしたいんですけど」 サラサラのロングヘアの少女が声をかけてくる。 「下に出口ってありますよね?」 その質問にも中年女性は目を逸らした。 制服の少女の一人は、次に祠へと視線を向けた。 「上には、何があったんですか?」 「えっと……、階段しかなくて。で、私たちタワーの見学に来てて、ちょっと横の非常口に入ったんですね。あの、非常階段のところ。少し遊んでただけなんですけど、迷ったみたいで展望室まで戻れる道がわからなくなってて……」 「タワーって。全然違うじゃないですか?」 「え? だって、壁も白いし。非常階段でしょう?ここは」 もう一人の少女が不思議そうな顔でそう言ってくる。祠は壁の色を確かめた。レンガのようなセピア色。間違いはない。 「壁の色はセピア色ですよ」 「え? コンクリートでしょう?」 今まで意識的に黙っていた中年女性がそこでやっと口を開いた。 「コンクリート……どこが?」 「レンガのセピア色の方が意味がわからないわよ。コンクリートの灰色の階段だし、手すりは黒いわよ」 「コンクリートじゃないです。室内のクリーム色の階段。手すりは、茶色の木みたいな」 そこでその場にいた全員が首を傾げた。それぞれが周りを見渡した。 「ねぇ、本当に言ってるの? どう見たって、普通の灰色のコンクリートだし……」  不満げな表情で中年女性が主張を続けようとする。しかし、言葉は途中で途切れた。 「……ねぇ、どうせグルなんでしょ? あんたたちも」  中年女性は、声を顰めて話題を変えた。その視線は自分以外を馬鹿にしているようでもあった。 「え?」 「なんの事ですか?」  中年女性以外は、皆よくわからないと言った様子。実際に、彼女が何を言わんとしているのかは本当にわからないのだ。  祠はじっと話題の中心となった中年女性を見つめた。 「私は、久我 昌子。ここは、あれでしょ。あなたたちもあの変な企画に応募したんでしょう?」  中年女性は、久我と名乗った。彼女がここに来た理由は祠とは全く違うものだ。 「変な企画って?」 「私たちは、さっきも言ったとおりタワーの見学に来てたんですよ。他の人がどう見えてるのか知らないけど、ここはタワーの非常階段とまるっきり同じだし。下に行けば何か看板もあるだろうし」 「ねぇ? 地上まで降りるなんて絶対に無理だろうけど、エレベーターの案内板はどこかにあるはずだし」  女子高生たちは二人で首を傾げている。今この場で久我に同意できるものはいないようだ。 「ね、あなたは?」  女子高生たちの矛先は、祠に向けられた。久我に対する空気感が二人と同じ温度だったからだろう。 「よく、わからない。部活の帰りに、電車に乗って……」  この場所に繋がる点がどうしても思い出せない。電車に揺られながら、明日の授業のこととか、部活で一向に上達しない自分のダメさを苦々しく思っていたことは覚えているのに。  どこの地点から、この現実離れした場所へ来てしまったのか。  思い出そうとしても、直前の光景ばかりだ。他の人間はこの場所へ来た経緯もわかっているというのに。 「私は、三城 さなみ。こっちは、西城 なの」  記憶を掘り起こそうと集中している祠に、二人の情報が開示された。 「私は、篠月 祠です」  祠も二人に倣って名乗った。相手にされたことを同じように返す。そうすれば、大抵の場合は『仲間はずれ』にされずに済んだ。それは同年代というだけの括りで一緒くたにされる学校生活で、祠が学んだ処世術だった。 「祠ちゃん、ねえ、私たちは下に行けばここから出られると思うんだけど……。降りてみない?」  さなみがそう祠に言う。二人は、これまでの経緯から下に出口もしくは、何らかの手がかりが得られると思っている。 「さっきも言ったけど、下に降りた方がいいと思うんだ」 「私たちは、下に降りるよ」  二人の表情には、曇りもなくその声には不安もない。きっと、下に何かがあるはずだと確信している様子だ。  ひょっとしたら、祠の出口も二人と同じように下にあるのかもしれない。 「私は、上に行くわ。一段だって降りたくないもの」  少し休んで体力が回復したらしい久我が、そう言って手すりに捕まり体を起こした。  久我はどうやらまだ登り続けるらしい。 「もしかして……お宝探しみたいな企画?」  階上を睨んで前進を続けようとする久我の姿に、何か閃いたようにさなみがそう発した。 「あ、あるある。どこかにお宝が潜んでいて、それを見つけたら賞金が貰える……ってやつね」  なのがいかにもバラエティ番組でありそうな内容を伝えてきた。確かに、そういう企画を祠も見たことがあった。そして、久我の態度にはそう言う報酬を求める人間の貪欲さがあった。 「平和でいいわね」 久我は周りの色めき立った空気を一気に冷たく戻した。 付き合っていられないとばかりに久我は、また階段を登り始める。 三人の視線に構わず、振り返ることもなく。 「どうする?」 「え? だって、私たちの目標は下にあると思うし」 さなみとなのはそう言って顔を見合わせる。二人の間には、共通の意思が見えた。 「祠ちゃんは?」 「え?」 「私たちと降りる? それとも、上に登る?」  なのの質問に祠は一瞬だけ何かを思い出しかけた。……頭の奥がほんの一瞬だけピリッとした。 「どっちでもいいよ。選んで」  さなみも質問を投げかける。その言葉に攪拌されて、頭の奥に感じた刺激を深く考えることができない。 「私は……」  何だろう……何かを思い出しそうな……。 「どっちにする? 上と下」  なのの声にすっかりと現実に引き戻される。今はどちらかを選択しなければいけない。  祠は久我の登って行った上とずっと階段が続く下を交互に見比べた。セピア色の淡い色彩が微妙にグラデーションを成している。時折、陽の光が入って、濃淡ができる。穏やかで、ずっと見ていたい光景だ。  陽の光が動くと言うことは、外には風があり雲が流れているのだろう。  どちらかを選ばなければならない時、祠はいつも両目を閉じることにしていた。小さな頃からのクセだ。瞳を閉じて集中する。  上か下か……。  そうしていると、脳内で選択肢の片方が消えていく。  残った階段は、上だった。 「上に行く」  この選択は祠にとって信頼できるものだった。上に何かあるのかはわからないが、上に行こう。自分の直感がそう言っているのだから。 「そうなんだ。じゃあ、私たちは下に行くね」 「じゃあね」  あっさりとさなみとなのは手を振って二人で来た時と同じように階段を降りていく。姿が見えなくなっても、楽しそうな足音は階段の世界に広がっていった。  セピア色の階段をただ登る。  久我の姿は少し先に見えていた。  部活の筋トレの習慣もあって、登ることは苦に感じない。  ここがどこだかは自然に考えなくなっていた。ただ目の前の階段を一段ずつ登る。  踊り場は同じような構造で、磨りガラスの窓からは外は見えない。  久我は、時折非常口があったと言っていたから祠もその場所を見つけようと思った。そして、その非常口のドアを開ければ、ここがどこなのかわかるだろうと思った。  トントンと軽い足取りで登っていくと、座り込んでいる久我に出くわした。手すりにしがみついて、一段も降りたくないといった様子だ。年齢の違いだろうか、祠は黙ってその横を通り過ぎる。  どうして、そんなに辛いのに登るのをやめないのだろう?  そんな質問が浮かんで、そしてまた脳内がびりっと刺激を受けた。  ……どこかで同じような疑問を持ったっけ? 『なぜそんなに頑張るの?』  あれは誰の声だっただろう? 祠が発した質問だったのだろうか? だが導かれる記憶はそこまでであとはフゥッと消えて行ってしまった。  祠は階段を登る。立ち止まって休んでいる久我の横を通り過ぎる。  久我と一瞬だけ目が合うが、彼女は何も語りかけては来ない。セピア色の階段と、窓から入ってくる柔らかな日差し。  祠には優しい世界が広がっているようにしか思えなかった。視界の端に久我を捉えてしまったからか、久我の発言を思い出した。 『ねぇ、本当に言ってるの? どう見たって、普通の灰色のコンクリートだし……』 久我の見る現在と祠の見る現在は一致していない。 試しにちょっとだけ、祠は想像してみた。灰色のコンクリートの階段、手すりは確か黒いと言っていた。ずいぶん無機質な印象を覚える。必死にいく方向を定めなければ、何かが起こりそうなそんな予感もするかもしれない。 だが、祠には昼下がりの平和な世界のようにしか見えない。 皆が皆、同じように風景が見えているわけではないようだ。それも不思議だが、もう一つ祠は不思議に感じていることがあった。 階段を上がる。いつもと同じように。もう三階くらいは登った記憶がある。なのに、『疲れない』のだ。息が上がることもなく、とても楽に足が上がる。  どこまでも登っていけそうな気すらしていた。久我を追い越し、さらに二階ほど登ったところで踊り場の磨りガラス窓の横に、扉が現れた。  それはまごうことなく『非常口』だった。セピア色の風景に明らかに異色の妙に現代的な扉だった。遊園地のアトラクションの中にあるような妙に現実的なあれだ。  見慣れた外の世界を象徴する扉のノブを祠は回した。
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