一、初夏、小さな果樹園《ヴェルジェ》にて

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 そういえばエマさんは不眠とオーバードーズをきちんと治したいとミュレール夫人に相談して専門医のもとに通い始めた。昨日買い物にでかけた市場でばったり会った時にエマさんが駆け寄って来てくれてそう聞いた。  最近は薬なしでも眠れる日が多くなってきたのと話す彼女の目の下にはもうクマはなく、白雪姫のような雪色の頬にはほんのり赤みがさしていた。  病院に行って来た帰りだと話してくれた彼女を今度城でオリビエさん達とやろうと計画しているバラを愛でるガーデンパーティに誘ってみた。彼女は少し考えてみるわと微笑んでくれた。無理なくでいいですからねと声をかけたら、彼女はしごく真面目な目つきで私を見つめた。 「蕾さんっていい人ね。私、あなたがあの時、病室で話してくれたことをあの後ずっと考えてわかったの。今まで薬を飲むことで哀しい感情から逃げていただけだって。でもこれからは逃げないわ。逃げても何も変わらないんだもの。私は過去を生きているんじゃない、今を生きているから、こんな今の私でも大切に想ってくれる人達のいるこの村で今を大切に生きようと思ったの。どうすればいいかわかったら、少し気が楽になったわ。自分を苦しめていたのは自分で、終わったことにただ執着していただけだった。大学は通信教育に変えて母と城で暮らすことにしたの。ああそうだ、母は父と離婚を決めたの。城は母のものになるから二人で母の好きなファッションを生かした事業を始めようと計画しているの。母は結婚する前、ファッションデザイナーとしてバリバリ働いていたの。もう二人で何をしようかとワクワクよ。蕾さん、いろいろ、ありがと」 「私は何も。でも今のエマさん、何だか輝いています。あの庭に咲いていたアイスバーグみたいに綺麗です」 「あなたのたとえって面白い。でも私あの花が一番好きだから嬉しいわ、ありがと」 「あのアイスバーグを植えたのは誰なんですか?」 「母よ。マーガレットと一緒にこつこつ植えているのがいつも窓から見えていたわ」  娘の為に交遊関係をひろげてあげたいと娘と同年代の若者を呼んでパーティを開いたり、好きな花で庭を埋め尽くしてあげたり。それはミュレール夫人の母なる愛なのだ。ひきこもる娘に外の世界に興味を持って欲しいと願いの現れ。エマさんはそのことに気がついたのだろう。  彼女はまたねと笑みを浮かべて去っていった。軽やかな足取りと“またね”と言われたことが思いのほか嬉しくて思わずにやけてしまった。  彼女はもう私の”友達“だった。
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