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(2)
「え、え、……ええ~?」
朋坂は困惑をありありと浮かべ、手のひらで額を覆った。信じがたい光景に笑いすらこみ上げてくる。未知のヒーローである魔法少年を間近で応援したいと強く思っていたが、まさかこんな訳のわからない形で突然その願いが成就するとは思わなかったし、できればこのような実現の仕方は遠慮して貰いたかった。
「てめぇのせいだろ! なん、なんで首輪、……はぁー? ほんっと、信じらんねえ」
店員――――、魔法少年もアスファルトにしゃがみ込むと、朋坂と同じように額を押さえて唸った。軍帽を模した帽子が傾く。
「はぁ~、意味わかんねえ、ライオもいないのに変身させられても困るっつの」
何度も何度も重く長いため息を吐いて、恨めしそうに朋坂を睨み付ける。手入れしすぎて横幅二センチほどしかない眉毛を顰めて、三白眼をぎろりと光らせられれば、朋坂の乾いた笑いも一瞬で引っ込む。
「す、すみません……」
営業で培った四十五度の角度で頭を下げると、魔法少年はふんと鼻を鳴らしてあぐらを掻く。黒い上質な布で仕立てられた半ズボンから白い足が覗いているのが気になった。真冬にそのコスチュームは些か可哀想な気がする。燕尾服に似たダブルボタンのコートは暖かそうなのに、ひどくアンバランスだ。
十数回目のため息を吐きながら頬杖を突き、ん、と顎をしゃくる。
「え?」
「返せよ」
「え?」
「それ」
どれ、と視線を追うと、それは朋坂の右手に行き着く。凍傷寸前の湿った青白い手には黒いレザーに特大クリスタルが引っかかっていて、思わず悲鳴を上げた。
「す、すみません、俺……!」
さっと血の気が引く。意味がないとは知りつつも、どうにかして自分とは関係のないはるか遠いものにしようとする逃避本能が働き、手をめいいっぱい伸ばして顔を逸らし、引きちぎれたチョーカーをなるべく自分から遠ざけようとする。
「弁償」
「は、――はい?」
「弁償。百億」
「ひゃっ……、くおく、ですか……?」
まるで子供が囃し立てるときに口を突いて出る戯言のようなそれに、朋坂の口元がにやける。またぎろりと眼光が飛んできて、慌てて表情を引き締めた。
「百億の内訳は」
「? 知らんけど、多分それくらいじゃね?」
「えぇー……っと」
目眩がする。
「それくらいの価値はあんの。本当はそれ、外しちゃダメってライオに言われてるし。これがないと俺、怪我とか治せねえし、まさか首輪が外れたら強制変身とか聞いてねえし」
「ライオ……?」
複数の疑問符を浮かべるのと、魔法少年の背後で轟音が上がるのはほぼ同時だった。
「な、なに!?」
もうもうと白煙が立ちこめ、地響きは鳴り止まない。都会のど真ん中だというのに、『土砂崩れ』という単語が過った。またしても極寒の冷気が襲い来る。巻き上がる白煙は、よく見てみると微細な氷の粒だった。それも、触れただけで凍傷を引き起こす、自然的にも人工的にも存在し得ない〝氷の凶器〟だ。
「どけ!」
「――ッ!」
少年に突き飛ばされ、背中をしたたかに打った。華奢な彼からもたらされた力とは思えない派手な吹き飛び方に一瞬、何が起こったか分からなかった。打ち付けた背より、右肩が痛む。じくじくと疼き、恐る恐る見ればジャケットが切り裂かれて流血している。
「ッ、……!」
白い目眩がする。朋坂は血液というものがとにかく苦手だった。赤色の液体と鉄錆の匂いに胃から酸いものがこみ上げ、卒倒しそうになる。
「無事か?」
「そ、そんなわけな……っ」
のんきに耳をほじりながら歩み寄ってきた少年に憤慨して噛み付こうとするも、すぐに朋坂の威勢は消沈した。
先ほどまで朋坂がうずくまっていた場所に、闇より濃い影が落ち、黒い鉄柱が突き刺さっていたのだ。
「あ――――……」
またもや白い目眩。どくんと心臓がひときわ大きく脈打ち、一瞬すべての物音を失った聴覚に、逃げ遅れた人たちの叫声が舞い戻る。くらくらとしながら頭を上げると、黒く細長いそれは鉄柱などではなく、とてつもなく巨大な虫の足だった。節くれ立っていて、金属のようにつやつやと鈍い光を反射している。
――――蜘蛛型のマーテル。その腹は膨らみ撓んで、ぼこぼこと波打っている。子が産まれる――――……。
「とりあえず逃げるぞ。横でちょろちょろされてると戦いにくいし」
魔法少年はそう零すと緩慢な動作で立ち上がり、コートの汚れを片手で払った。だるそうに鋭い爪の付いた籠手を掲げると、長い杖が手に吸い付くようにして音もなく現れる。瞠目する。
「着いて来いよ」
口をぽかんと開けたままの朋坂をくるりと振り返って、魔法少年は面倒くさそうに顎をしゃくった。朋坂の返答すら聞かず、ブーツの踵をガツガツと鳴らして数歩進み、頭を掻きながら地面を蹴る。跳躍して、黒い影はあっという間に近くに建つ八階建てのビルの屋上まで跳躍した。風圧に、きらきらとした半透明な星々が舞う。
「いやいやいや、着いてこいって、嘘だろ……?」
まさか、あの屋上まで来いという事だろうか。頭が混乱する。この状況は一体、なんなんだ。掌にはいまだチョーカーが握られたままになっている。血でしとどに濡れて、透明だったクリスタルはいまや真っ赤に染まり切っている。う、と小さく呻いてめいいっぱい目を逸らした。
(くそ……っ!)
この状況では従うしかあるまい。より濃密になる氷の靄から遠ざかるようにして、朋坂は地鳴りのする地面を蹴り全速力でビルまで駆けた。
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