とわがたり

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(2)  時折、人形になった気分になる。  たとえば爪のひとつにしても、散髪のひとつにしても、すべてマスターである竹間の許可と納得が必要であった。  髪はかならず専属の美容師を屋敷に召喚し、竹間が観察するなかで神妙にカットされるのだ。  目尻にかかる前髪の長さまで具に検分され、何度目かのリテイクのすえにようやく竹間が頷くと、儀式めいた理容は終了する。切り終え、床に散った髪の行く末を仁見は知らない。髪や爪など、身体の一部は切り離されたとしても魔力が遺るのだと発見したのは竹間そのひとだ。きっと何かよからぬ研究にでも使っているのではないかと想像しているが、なにせ仁見が干渉できることではないのだ。たとえ己の一部であったはずのものだったとしても。    爪は、竹間が手ずから整える。  ガラス製の繊細なヤスリで、指の一本一本、丹念に時間をかけて整えられるのは毎週金曜日のことだ。決まって金曜の夜にそれが行われるのは、魔力補充も一緒に行うことを鑑みて、互いに休日前となる夜に行うのが効率的だからだと思っていた。翌日が休みであるなら、どれだけ無体を働いたところで、どれほど深い傷を負わせたところで、業務や勉学に影響しない。  ところがそれは盛大な勘違いだったようだ。 仁見はまだ、竹間の鬼畜性を理解しきれていなかったのだ。甘かった。  効率などはなから関係ない。翌日の体調などそもそも考えたことすらなかっただろう。 竹間はただ、間近で観察したいだけだ。  決まった曜日に決まったルーティンで痛苦を与えれば、週末が近付くにつれて仁見の表情が翳っていく。元々白い仁見の貌が青褪め、徐々に食が落ち、伏し目がちの日が増えていく。爪の伸びを気にかけ、嘆息する。その姿を竹間に見つめられると、はっと面を上げてばつが悪そうに俯く。唇を噛む。噛んだ唇を赤く滲ませる。竹間に呼び止められるたび、襖の向こうで白檀が香るたび、肩を掴まれるたび、ひそめいた声で耳打ちされるたび、仁見はじりじりと魂を削っていく。  そのさまを観察できるから、竹間は金曜日の夜に仁見を呼び出し、爪を整え、そして魔力を補充する。  痛みの日を覚えさせるため。  魔力補充を意識させるため。  痛みを、くるしみを忘れさせないため。      今夜も計ったように竹間は音もなく仁見の部屋にやってきて、痩せた長身を抱きすくめておのれの膝の上に座らせた。背後から抱きかかえられるかたちでは、耳に直接竹間の声が吹き込まれる。  苦手だ。蛇のような目も、視線も、香りも、生白い貌も、艶めく黒髪も、細長く節くれ立った指も。――――特に、涼しげな瓜実顔に似合わない、低音がいやに響く深い声音も。  仁見は身体を硬直させ、それでも懸命に浴衣の裾を直した。 「あまり伸びていませんね。栄養をもうすこし加味しましょうか」  爪と皮膚のあわいをかすかなタッチで撫でられると、生理的に腰が震えた。 「た、卵を飲むのはもういやです……」  以前、陶器の鍋に割り入れられた生卵を無理やり飲ませられたことがある。あのぬるぬるドロドロとした食感がいやなのだと懇願したのに、当然その命乞いが聞き入れられることはなかった。そもそも竹間は、仁見が生卵が苦手であることを知ったからこそ強行した節がある。栄養効率が良いなどとはもちろん体の良い言い訳で、無慈悲な飲食強要は単なるいやがらせだ。おかげで、仁見のクリスタルはそのとき、人生で最も燦然と輝いてくれた。 「そんなに怯えなくてもいいじゃないですか。仁見くんが嫌がることなんてしませんよ、私は」 「嘘つき。むしろ進んでやっ……、やっているじゃありませんか」  指の股を撫でられ、声が一瞬詰まった。こうした小さな嫌がらせで羞恥を煽り、理性や自尊心を剥奪するのは竹間の最も得意とする手管だ。 「したことありませんよ。すべて仁見くんを想ってやっていることですから。私だって心苦しいんですよ。……さあ、そろそろ大人しくしなさい」  あまりにも白々しくて、口答えする気も失せる。  有無を言わさぬ力で人差し指をつままれた。このまま力を入れ続ければ、仁見の指なんていともたやすく折られてしまう。 「そう。従順でいることです。でなければ、私を殺せるほどの力を蓄えることだってできなくなるんですから」 「……っ!」  心底可笑しそうに耳元で低く嗤われ、かっと頬が燃えた。  爪の先端に、ヤスリが添えられる。焦らすような緩慢さで引かれ、しょり、と爪の粉が舞った。たんぱく質が摩擦されることによって生じるにおいが、背後から漂う竹間の白檀めいた香りと合わさって仁見のこころをかき乱した。据わりが悪い。居心地が悪い。もぞ、と膝を合わせると耳たぶを噛まれた。ひっ、と喉奥が引きつると、竹間の機嫌は良くなる。  背中が熱い。薄い浴衣越しでは、竹間の体温と、ゆるい鼓動が伝わってきてイヤになる。 「こうしていることがストレスですか?」  竹間の節くれだった指が、爪から離れて首元を撫でる。チョーカーから下がるクリスタルを形のいい爪でこつんと弾かれると、背筋から脳天まで甘い痺れが走った。 「私が触れるだけで、従順に反応をして、されるがままのくせに心は私を拒絶している。接触するたびに君の蒼い石がうっすらと光って……はは、気分が良いです。厭なんですね、仁見くん。――――ああ、かわいいな」  ぞっとした。嫌がられることを視覚できちんと視認して、それなのにこころの底から嬉しがるなんてまともじゃない。 「やっ、……めてください。普通に、殴って、ふつうに補充してください……」  ぽた、と着物の合わせ目から覗いた膝に涙が散って、ようやく仁見は自身が恐怖から落涙していることに気が付いた。  慌てて涙の粒を擦って消そうとするが、それより早く竹間の指が仁見の膝を撫でた。膚にすり込むように、涙の痕をなぶる。爪を立てて、落涙の事実を忘れさせまいとする。 「それじゃあ芸がないでしょう。身体の痛みっていうのは、ある程度は慣れてしまうものですよ。それよりもっと長期的に補充できるよう、いろいろな方法を試していったほうがいいでしょう。私は、できるだけ永くきみを使役したいんです」 「し、使役……って」  愕然と目を丸くする仁見の目尻に唇を落として、竹間は口角を上げた。 「気に入っているんですよ、私は、きみが」  しれっとのたまい、仁見の指にも悠揚に唇を落とす。恭しくへつらう動作のくせに、熱い目線はじっとりとした支配欲を隠そうともしない。 「その抑圧された反骨心が、仁見くんの魅力なんだろうね。あまりにもひたむきで、いっそ愛念を注がれている気分になる」  馬鹿にしたように嗤い、竹間はヤスリを構え直す。爪の形まで竹間の好みに改造されるのかと思うと、ほとほと厭になった。まるで恋人みたいに指を絡め、組織を削り取られる。塵になってしまったかつての自分の一部分が、時折つめたい息で吹き飛ばされるたびに己の魂も一緒に消散していくようで、熱心に沸かせた業腹もむなしさへと転化する一方だ。  反抗するだけ無駄。こころごとへし折られる。 「それにしても、」  九本目の指にヤスリを押し当てながら、竹間は口を開いた。 「本当に致命傷を負うなんてね。あのままでは、本当に死んでいたかもしれませんよ」  髪縄のマーテル戦で、仁見はおのれの首を掻き切った。  霧状に吹き出る血の向こうで、朋坂が必死に手を伸ばしてくれていたことが、あのときからずっと、こころのスクリーン上に繰り返し映し出されている。  ゆるく首を振って、スクリーンに幕を下ろす。大切に。決して覗かれないように。 「貴方が命じたんでしょう」 「内心、実行しない方に賭けていました。よほど、かつての折檻が効きましたか?」  奥歯を食いしばって憤怒を堪える。以前、 『レモラが人の肉を摂取したら成長するのか、気になります。少々囓られてみてください。できれば内臓の方を』  と命じられて仁見は逃げたことがあった。するとその夜、とてもひどいめに合った。思い出したくないほど。脳が灼き切れてノイズと焦げにまみれた記憶になるくらいには。  そのときに植え付けられた傷がいまでも、仁見の内股に存在する。縛られ、切られ、焼かれ、そして竹間のこころの赴くままに〝愛された〟痕が。 「や……やめて、ください本当に。竹間さん、本当に、思い出したくない」  許されるならば今すぐにでも距離を取って逃げたいくらいだ。それができないのは、植え付けられた恐怖に足が竦み、震え、力が入らないから。  教え込まれたからだ。痛みを。痛み以上の痛苦を。 「――――かわいいね」  指にまとわりついて痛いほどに絡んでいた竹間の手がするすると下りて、愛の痕を撫でる。くじるように爪を立てられれば、仁見は涙をこぼして嫌がった。 「いやだ、やだ、やです……。厭です、俺に触らないでッ!」  自分でも驚くほどの鋭い声が出て、瞠目した。しまった、と瞬時に後悔し、音を立てて血の気が引いていく。荒立つ猫に似た、ふうふうとした呼吸がせわしない。呼気に煽られ、垂れた髪がふわりふわりと揺れる。病的に怯える仁見の予想とは裏腹に、竹間はむしろ理性を失った強い拒否に気を良くしているように見えた。 「褒めているんですよ。なかなか良いものが見られました。それにとっても美しかったですよ。君のこの生白い頸に、緑青の浮いた短刀が走って……ね」  存分な魔力補給によってすでに治癒は完了しているのに、竹間は裂傷があった箇所を寸分の狂いもなく正確に探り当てた。 「朋坂さんはずいぶんと取り乱していましたけれど。あれは、きっと過去にトラウマを抱えていますね」  面白がる口調に、仁見は眉根を寄せた。 「どんな因縁が掘り起こされるのか見物ですよ。目の前で恋人でも亡くした? それとも返り血を浴びた? エリザベート・バートリのように血の満たされた湯船にでも浸かった? それともヴラド・ツェペシュよろしく、人を串刺しにして血の丘を創造した? なんにせよ面白いですよね。私はそれを余すところなく知ってみたい。――――ああ、そうだ」  いやな予感が暗雲のように広がる。 「仁見くんが探ってみますか? 朋坂さんは貴方にずいぶんとこころを許している。ならば、そのまま過去を踏み荒らし、こころに入り込んでかき混ぜてみせればいい。私の言いつけは守れますもんね。なにせ、このきれいな頸をすっぱりと切ってしまえるのだから」  脅迫と痛苦しか与えない指先が、仁見の頸に息づいた〝覚悟〟をつつく。  頸すら切ることができたのだから、他のどんなことも出来ますよねと、竹間は言っているのだ。  頸を切ったがために、退路を断たれた。拒むという選択肢をみずから手放してしまった。  頸を切ったから。  切ってしまったから。  切ったのに。  切れたのに。  悲観が立ちこめる。 「……っ」  しかし、悲観はすれど今度こそ怯えることはない。恐怖よりもずっと、友人を愚弄される屈辱と憤りが勝ったのだ。  面を上げる。瞳の湖面は揺るがない。風の吹かない夜の湖みたいに、ただ静かに凪ぎ、澄んでいる。 「悪趣味が過ぎます。そんなことをするくらいなら、私はすべてを捨てて死んだほうがマシだ」 「…………」  一瞬、ひとひらの畏れをも忘れた強い瞳に射貫かれて竹間は目を見張るも、すぐに仁見の持つふたつの湖面は翳ってしまった。  蒼い燐光が虹彩で弾けはしたものの、怒りに誘発された魔力の奔流は瞬時に消え去ってしまった。竹間がよく知る、憂虞を警戒を核に構成された弱々しい眼差しはまたたく間に伏せられた。バツが悪そうに、俯いて膝をすり合わせる様はあまりにも稚気が過ぎる。  竹間はふいに、出会ったばかりの仁見奏を思い出した。こうして、強い瞳で睨み付けてきては打ちのめされ、痛みと恐怖でねじ伏せられても頑固に刃向かい、じくじくとした炎色に彩られた魂はそれでも凜としていた。  あの頃の仁見の片鱗を久方ぶりに見た気がして喜悦を覚えると同時に、それがすぐに陰ってしまったことを惜しいと感じる身勝手さに、竹間は自嘲を抑えられなかった。  気高い青瑪瑙の牙は健在だ。折れてなどいない。  野生の動物みたく物陰で牙を研ぎ澄まし、竹間の喉笛を噛み切る絶好の機会を虎視眈々と狙っている。  その執念と頑強な精神力に竹間はいつだって身震いをしていた。  牙を向けきる前に大人しく分を弁えて消沈する姿は、まさに竹間の調教の賜だ。本来ならば成果に喜ぶべきところなのに、残念に思うとは。  仁見が胸の裡に飼い慣らしている蒼い獣を再確認できたのは良いとして、はたして眠っていたはずの燃えたぎる牙を揺り起こしたのは――――。 「もしかして仁見くん、赤のマスターに懸想なんてしていませんよね」 「…………は、?」  その詰問は、居心地の悪そうに小さくなっていた仁見を瞠目させるのに十分だった。  仁見は混乱にまとまらない脳をフル稼働させて、必死に竹間の真意を探る。が、もちろん不動のマスターがなにを考え、なにを答えさせるために向けた質問なのか解るはずもなかった。  赤のマスター、つまりは朋坂頼世。  気の向くままに跳ね回る祥馬を必死に追いかけ、時にはすがり、泣き、悔恨し、精一杯生きている――――人間。あまりにもありのまますぎる、むき出しの人間。それが仁見の知る朋坂頼世だ。 「なに、を」 「ずいぶんと肩入れしているじゃないですか。連絡まで取り合って。私が気付いていないとでも?」  すっと瞳が眇められ、一気に室温が下がった錯覚に陥った。蛇の瞳だ。とても人間がしても良い眼ではなかった。  ゴルゴンが現世に生きていれば、きっとこのような眼で世界を支配していた。 「ちが……、違います。そんなことは絶対に」  ない。あるわけがない。懸想? あり得ない。 「誤解です。本当におれはそんなつもりじゃなくて、祥馬のために……、力になれたらって」  必死に弁解するせいで一人称が生来の砕けたものになっていることに、仁見は気が付いていない。竹間だけがわずかな言葉遣いのゆらぎに眉を上げて驚喜している。 「そうですか。それじゃあ、私に奉仕できますね?」  縋り付く格好で半身を向ける仁見の肩を掴み、瞬きで睫毛が掠りそうなほどに竹間は顔を近付けた。  謀られた。ここで拒否しては、まるで朋坂に懸想していることを認めるような格好になってしまう。そうなれば竹間があらぬ理由をつけて仁見だけではなく、朋坂すらも無遠慮に陥れるに違いない。  竹間の気分ひとつで、誰もが彼の玩具に、そして実験動物になってしまうのだ。 「……、わかりました」  仁見ができることなんて限られている。髪も爪も自由にできないのに、こころまで掌握されて消費されるなんて御免だった。 (奉仕は己の意思で行う。せいぜい魔力を補充して、殺すための糧としてやる)  仁見は蒼白になった指にぐっと力をこめ、指に絡んだタンパク質の粉をてのひらに刷り込めるようにして握りしめた。    いまは牙を研いで、磨いて、鋭く鋭く、削り取られた爪のぶんまで鋭く――――天上で白く輝く三日月のように鋭利に磨いて、万全に備えるのだ。
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