とわがたり

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   *   *   * 「魔力~、補充~」  まるで石焼き芋売りのトラックのアナウンスみたいな抑揚を付けて祥馬は唄う。  夕食を平らげてから眠くなるまでのあいだに、朋坂は何かと絡まれることが多い。主に魔力を補充しろだとか、勤務前の景気づけにアイスを寄越せだとか、おやつを作れだとか、冷凍ポテトを揚げてくれだとか、スマホゲームのガチャを代わりに引けだとか、そのときの気分で要件は多岐に及ぶ。はじめこそ鬱陶しいと感じていた朋坂も、これが彼なりの甘えなのだと悟ってからは無下にせず、はいはいと苦笑して願望を叶えてやることにしていた。  二月にさしかかろうとしている午後八時すぎ。  頻繁に襲来していたファミリアも衰勢し、ここ数週間はすっかり静かな日々を送っていた。  祥馬は昼夜関係なく不規則に働き、きちんと家賃や食費も納めている。決まって給料日に、一日の遅れもなく地方銀行の封筒にお金を入れて持ってくるさまから、彼の元来の真面目さが見て取れた。妙な情けと、日々与える暴力の罪悪感から『もう払わなくてもいいよ』と断ったのだが、祥馬は決してその提案に納得はしなかった。金額に狂いがないかもその場で確認すると、そこでようやくほっと肩の力を抜いてくれる。このやりとりが朋坂を少々複雑な気持ちにさせていることに、きっと祥馬は気付いていない。 (まるでただのルームメイトか、居候みたいだ)  最初に折半を要求したのは朋坂なのだが、いざこうして情が生まれてわずかばかりの信頼関係が構築されると、この肩肘張ったやりとりが妙に味気なく、また白々しく感じてしまうのだ。その理由はなにかと考え、よもや祥馬と〝家族〟になりたいのかと疑い、頭が重だるくなった。  変な執着の仕方をしている。  憧れていたアルマと親密な関わりを持ったせい?  〝非現実〟に当てられ、浮ついているだけ?  関係を持ち、懐き始めた憧れのアルマのこころの奥深くに、決して超えることのできない絆を結んだ人物がいたから?  本当は祥馬に執着しているのではなく、〝アルマ〟という超常的かつ非現実な存在を我が物にしたいだけなのではないのか。  朋坂は悶々と立ちこめる答えのない疑念に自身の醜さを炙り出される気がして、無理やり思考を断ち切った。  「俺も残業終わりで疲れてるから、ちょっとだけだぞ」  わざとおどけて言い、陰惨な儀式の気配をわずかでも遠ざける。ネクタイを緩めて、高まる体温すら果てに追いやろうとするのは怖いからだ。  濃密な魔力に充てられ、血液への恐れにすら鈍感になってしまう自分が、何よりも怖ろしくてたまらない。  暴力は怖ろしい、おぞましい。血液は恐ろしい、おぞましい。  そう思っていたい。これから先もずっと。麻痺など、したくない。  祥馬は仰向けのまま、朋坂のたじろぐ眼を見つめている。まっさらに放心しているふうにも見える無垢な表情。オーバーサイズのブルゾンがソファに広がり、まるで覆い被さろうとする朋坂の熱を包み込もうとしているようだ。もちろんそれは都合の良い錯覚なのだろうけれど。醜い心理に振り回され、自身を見つめ直すことを畏れる朋坂にはとてつもない慈悲を与えられている気分になった。  胸が熱くなる。白い鎖骨のあいだで揺れる紅玉が、朋坂を妖雲へと匿う。 「首、締めて」  頭を殴られるほどの衝撃に、朋坂は思わずよろめいた。  首を締める――――……?  たしかに、髪縄マーテル戦のさなか、朋坂は祥馬の首を絞めた。数秒の気絶を得て、祥馬は満ちた魔力にひどく満足げに笑んだことを覚えている。 「でも……」 「くび」  だっこをねだる子どもの仕草で両手を差し出された。誘われるままにふらふらと近付き、すとんと座ると金色の髪を撫でる。細い髪だ。触れているのに、さわさわとしたかすかな感触しかもたらしてくれない。 「そっちのほうが、ヨリも楽でしょ」  殴ることに比べたら、たしかに静かな暴力だ。 「祥馬も、そっちのほうが楽か?」 「俺は……、そうだなあ。楽、かもね」  秘密を隠そうとする動きで瞳が逸らさると、胸のなかに巣くっていた疑念に火が灯った。その炎の色はきっと、冴え冴えとした朱鷺色だ。 「上手くいけば、死ねるからか?」  祥馬の肩が跳ねる。一拍の詰まった呼吸ののち、ゆるい隆起の喉仏が上下する。緊張の表れを見て取れ、朋坂は手を伸ばして隆起を撫でる。く、と人差し指に力を入れると、祥馬は苦しげに呻いた。 「俺が力加減を誤ったら、弥言さんのところに逝けるからか?」 「ち、ちが……」  鼻が痛み、目頭が熱く燃える。格好悪いところばかり見せたくないのに、理性を放棄した涙腺が大粒の涙を生み出すのを止められない。  祥馬はもう一度、死にたがっている。  死んでもいいと、死んだほうがいいと、そう思っている。 「ヨリ? なんで泣いてんの」  祥馬の頬に涙が落ちると、瞠目していたはずの彼は反射的に目を閉じた。ぎゅっとまぶたを閉じたその顔がたまらなくて、膜を張った涙の外側で紅玉がちかちかと瞬いていて――――。 「んっ……!?」  朋坂は自身がなにをしているのか、まったく理解していなかった。  ただ衝動的に覆い被さって、祥馬の唇に自身のつめたい唇を押し当てていた。  祥馬の唇は信じられないほどに熱かった。表皮すら感じられないくらいみずみずしい肉の感触が伝わってきて、じんじんとした痺れが雷のように全身を走った。 「ぅ、む……ッ」  熱さに驚いて一度は離した唇を、もう一度押しつける。 かつての祥馬を救い、そして愛や道徳や生活のすべて、魂の在り方のすべてを教えてきたのであろう弥言に対して抱いていた、決して解消も届きもしない嫉妬が祥馬のくちびるによって慰められる。甘美を通り越して、中毒になりそうな安心感が熱をともない広がる。  抱き込むように祥馬の後頭部に手を宛がって角度を付けた。仰け反った頸を撫でて、反動でわずかに空いた唇の隙間に舌をねじ込む。  表面だけではなく、口内はもっと熱く、まろやかな葛湯を思わせた。なにかを探るように舌先で上顎の凹凸を舐めると、鼻にかかった甘い声がくぐもって溶けた。 「あ、……」  祥馬の舌がもつれ、逃げようとする動きによって朋坂の舌を舐める格好になった。ぞくんと背筋が震え、思わず唇を離す。 「ごめ、」  とっさにまろび出た謝罪は、しかし途中で硬直して潰える。  祥馬のクリスタルが、今までの暴力とは比べものにならないほどに紅く、紅く深紅に輝いているのだ。  ぐら、と視界が歪む。  嫌がっている。祥馬は嫌がっている。  血が出るよりも、骨が折れるよりも、それよりもずっとずっと、いまの行為を嫌悪している。 「祥馬……」  うっすらと赤みを帯びた虹彩が、魔力の滾りを如実に訴えていた。祥馬の身体から溢れる濃い魔のかおりが立ち昇り、息が詰まる。 「……っ」  祥馬は顔を背け、眉根を寄せている。白い横顔。白熱灯に灼かれる、金色の髪。血色の良い唇。あつい、唇。朋坂の舌を舐めた、ちいさくて薄い舌。憎まれ口を叩く声が甘くよじれて、同居している男に組み敷かれたまま、弱点であるはずの紅玉を見せつけるように輝かせて――――…………。 「ヨリが嫌いなわけじゃない」  おずおずとした声音に、朋坂ははっと我に返る。  冷や水を浴びせられ、理性が再生するのを感じた。一度冷静になってしまえば、己の愚行がひどく恥ずかしく、そして忸怩たる後悔が渦巻いた。  祥馬は身じろぎ、頭の横に付かれた朋坂の腕におでこを寄せ、耐えかねた息を細く吐く。 「ヨリは、弥言さんのあとに俺を拾ったどのマスターよりも優しくしてくれる。毎日、俺はヨリと一緒に暮らしていて、……たのしい、と、思う」  言葉尻が涙声に揺れる。弱々しい姿に、朋坂は懺悔よりも先に慰めてやらねばという使命感に苛まれ、とっさに縋り付かれていないほうの手で祥馬の横髪を撫でた。目元を露わにさせると、さらけ出された瞳は、やはり潤んでいた。 「いやじゃなかったよ。嫌だとは、思わなかった。でも、……なんでだろう。なんでこんなに、悪いことをしている気持ちになるんだろう」  祥馬のアーモンドアイが歪んで、唇がわななく。 「……もしかして、祥馬は弥言さんのことが好きだったのか?」  うすうす感じていた疑問を口にすると、答えを聞くまえにすでに胸が黒く澱み、深い夜の森のようにざわめくのを感じた。  祥馬は口を引き結んだまま軽い瞬きを繰り返すばかりだ。キスのあとの、わずかに湿った唇が音もなく開くのを、スローモーションで見とめた。 「愛情は感じていた。……きっとたぶん、恋に近かったんだと思う」  予想はしていた。祥馬が弥言を語るたびに、表情と声音の温度と色でうっすらと気が付いていた。 「魔力の補充もしていたのか?」 「ううん。弥言さんは、痛いこととか怖いこととか、しなかった。だから……、だから、死んじゃったんだ。俺が弱かったから」  憂いを纏っていた瞳が歪んで、赤い目尻の際に涙の粒が盛り上がる。縋り付く目線が朋坂を見上げ、苦しげな荒い息で胸が上下する。 「だからっ……、ヨリが魔力補充をしてくれて、俺はほっとしたんだ。ヨリには死んでほしくないから、今度こそ守りたいから、だから……っ」 「――――うん。分かってるよ。大丈夫だよ。もう無理しなくてもいいから。俺がわるかった。ひどいことをした」  濡れて冷えた頬を包んで、抱き起こした。そのまま抱きしめると、背に回された手がぎゅうとしがみついてくる。肩口が冷たく感じ、祥馬が声もなくさめざめと泣いていることに気が付いた。震える背をあやし、髪に鼻を埋める。毎晩使っているシャンプーの、ブーケの香りが同居の証を主張している。一緒に暮らして、一緒に生きている。そう思うとたまらなくなって鼻の奥が痛んだ。  ひとしきり泣いて、祥馬はゆるゆると上体を離した。熱が離れていくのが、少しばかり名残惜しい。  鼻を鳴らして、涙を雑に拭う。幼稚な仕草が抜けない、いつもの祥馬だ。赤い目尻に金色の猫毛がかかって、きらめく太陽光にあたためられた春を連想した。  もっと、祥馬を知らねばならない。  理解し、自身のこころを整理しなければいけない。  その機会が訪れたのだと、朋坂は認識していた。 「――――祥馬、俺にも教えてくれるか。弥言さんとどんな生活をしていたのか。なにを教えてもらっていたのか。どんなふうに戦って、どんなふうに生きてきたのか」  乱れた横髪をしろい耳にかけてやって、ゆっくり含める言い方で願う。祥馬は短い逡巡ののち、小さく頷いた。 「ありがとう」  礼を述べると、祥馬は悲愁のまなざしを伏せる。  重い懺悔をぽつぽつと語るこの部屋は、いつしか告解室へと変貌していた。       
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