第16話 桜、散る

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 突然、ヘッドライトの光が二人を照らした。  千隼は、眩しさに不意を突かれて、一瞬よろめいた。  その隙に、紫乃はその場から逃げようと背を向けた。足がもつれる。  次の瞬間、膝を地面に打ち付け、激しく転倒した。  千隼が、シャベルを構え直す。同時に、校庭の砂を巻き上げて、タイヤを軋ませながら、茶色のセダンが飛び込んで来た。 「伊庭さん!」  紫乃が叫ぶ。その声に反応して、千隼が大きくシャベルを振りかぶる。 (…間に合わない)  そう思って、首を縮めて目を閉じた。 「紫乃!!」  紫乃の耳元で、シャベルが鋭く空を切る音がした。  砂の上に何かが倒れる音と、金属音が響く。  紫乃が目を開けると、伊庭が千隼を組み伏せているところだった。 「紫乃、怪我はないか!」 「…私は大丈夫です」  組み伏せられた千隼が、地面に顔をつけたまま喚く。 「紫乃は俺の物なんだ!誰にもやらない!ずっと二人でいるんだ!」  伊庭に向かって、泣きながら吠える。 「お前が悪いんだ!お前さえいなければ、ずっと、あの頃のままでいられたのに!!」  伊庭の下でもがくが、びくともしない。 「紫乃は、誰のものでもない。紫乃の全ては、紫乃自身のものだ」  伊庭が落ち着いた声で話す。子供を諭すように。 「時間は前にしか進まないんだ。どんなに望んでも、時を巻き戻すことはできない」  パトカーがサイレンと共に現着する。 「伊庭さん!!」  警官と一緒に、樹と堂本が走って来る。  千隼がしゃくり上げながら、声を上げて泣いている。伊庭が、千隼を引き起こしながら言う。 「自分を、ましてや他人を、タイムカプセルに閉じ込めて、埋めることはできない。苦しい現実であっても、今を生きるしかないんだ」  伊庭が、千隼を掴んだまま、紫乃を見る。  紫乃には分かった。今の言葉は、その場にいる皆に、そして何よりも、伊庭自身に語っているんだということを。    二人の視線が、交錯する。 「…そして、時間と共に、前に進むしかないんだ」  樹が、紫乃を助け起こす。砂を払って、心配そうに手を握る。 「紫乃、怪我してない?」 「ありがとう、怪我はないわ」  堂本が、 「殺人未遂の現行犯だな」 と言って、千隼の両手に手錠を掛ける。  警官達と一緒に、パトカーに向かう。 「…千隼!」  紫乃が、叫ぶ。  千隼が、振り向いて紫乃を見る。 「…ごめん。紫乃」  悲しげな瞳だったが、虚ろではない。しっかりと紫乃を見た。    そして、ゆっくりと前に向き直り、歩き出した。  千隼を乗せたパトカーは、赤色灯を回しながら、去っていった。  紫乃の頬を涙が伝う。零れて、校庭の砂に落ちる。  この校庭で、無邪気に声を上げて、走り回った日々は、二度と戻って来ない、遠い過去になったのだ。    もう既に、辺りは夜色に染まっていた。遥か下で、街の灯りが瞬いているのが見える。 「…帰ろう。紫乃」  伊庭が近づいて来る。  紫乃は、黙って頷いて、彼を見上げる。 「俺を、置いてかないでくれよ」  忘れられていることに、不満な樹が、声を上げる。 「…分かってるさ。…お前、どさくさに紛れて、いつまで紫乃と手を繋いでるつもりだ?」  伊庭が、ギロっと睨みつけた。  紫乃が慌てて、手を引っ込める。 「…バレた?ケチだなー、伊庭さん。減るもんじゃなし」 「まったく、油断ならないヤツだ」  伊庭が、片頬で、ニヤッと笑った。  つられて、紫乃も微笑んで伊庭を見た。 「行こう…」  紫乃の手を取って、車に向かって歩き出した。
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