第16話 桜、散る

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 ここにきて、温かい日が続いている。一気に気温が上昇し、桜の開花宣言が朝のニュースで聞かれるようになった。  もっとも、紫乃の家にはテレビは無い。  あれからの日々は、目まぐるしく過ぎた。紫乃も伊庭と共に警察の事情聴取を受けた。その時に、聞いた事によると、自転車の切り裂きも、お風呂場のガラス窓も、千隼がやったと自供したという。 「…なぜ?」  紫乃がポツンと言う。向かい側に座っていた堂本が、 「脅すことで、自分を頼ると思った、と言ってました。伊庭さんの存在が気に入らなかった、とも」 と、答えた。 「彼、高塚沙也加の件がトラウマになっていると思われます。精神鑑定とケアが必要です」  そうなると、教師は辞めざるを得ないだろう。立ち直れるだろうかと心配になった。  伊庭は、原稿を書き上げ、編集部との打ち合わせに、頻繁に都内へ出かけて行く。  週末に、樹が様子を見にやって来た。 「お前、またタダ飯食いに来たのか?」  伊庭が呆れ顔で、樹を見る。 「だって、紫乃が心配なんだから、仕方ないじゃない。伊庭さん、今夜は何?」 「ロールキャベツ。紫乃、庭から春キャベツ取って来てくれ」  なけなしのキャベツ、最後の一個だ。  …次は、何を育てようかな…。そんなことを考えながら、小ぶりのキャベツを抱えて、山に目を転じる。所々がピンクに染まった春の装いに変わっている。あの日の、禍々しさは感じられない。 (きっと、今頃、あの校庭は満開の桜に囲まれてるんだろうな)  そう思っても、行く気にはなれなかった。  ロールキャベツの夕飯を食べ終わり、紫乃と共に皿を片付けていた樹が、伊庭に話し掛けた。 「御堂さんに、桐生颯斗のお墓がどこにあるか、聞いたんだ。今度、墓参りに行ってくるよ。寂しいだろうから」 「ああ、そうだな。それにしても、桐生は、なぜ10年経ってから、一人ずつ毎年施設に贈り物をしよう、なんて考えたんだろうか」  樹が、伊庭に向き直る。 「あの頃、『タイガーマスク』とか『だてなおと』とか、匿名で子供の施設に善意の贈り物をするのが流行ってたよね。そのせいじゃないかな?」  伊庭は無言だった。  …おそらく、それもあっただろう。だが桐生は、きっと他のことも考えていたと思う。 (時効だ…)  当時は、まだ時効があった。殺人事件は15年、なんてよく刑事ドラマでやっていた。桐生は、善意の贈り物が話題に上がることで、誰かが高塚沙也加の事件を掘り返してくれる事を、期待したんじゃないだろうか。それは、すなわち、あの事件の結末に、納得いっていなかったという事になる。 (桐生はこの地を離れ、大阪に行かなければならなかった。身寄りのない、無力な少年にできる精一杯だったんだ)  人は、その命を終えた時が『死』であるが、その人を誰も思い出さなくなった時、もう一度『死』を迎える。  桐生は、沙也加を皆の胸の中に、ずっと生かしておきたかったのだろう。  樹を、駅まで送りながら、車の中でそんな事を話した。 「そうかもしれない…。だとすると、桐生が思い描いていた通りになったね」  樹が、同意する。しばらく黙っていたが、再び、口を開く。 「伊庭さん、これから、どうするの?」  樹は、鋭い。伊庭の態度から、感じ取ったことがあるのだろう。 「ブラジルに行く。向こうでルポを書く。しばらく戻らない」 「紫乃は知ってるの?」 「いや。まだ話してない。…もし、俺が帰らなかったら、紫乃を頼んだぞ」  樹が鼻で笑う。 「フン、アンタがいなくなったら、すぐにモノにしてやるよ。遠慮しないからね」  今度は、伊庭が鼻で笑った。
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