335人が本棚に入れています
本棚に追加
伊庭の部屋に、畳んだ洗濯物を運ぶ。ベッドの上に、それを置いて、部屋を出ようとした時、パソコンデスクの上に目が留まった。
パスポートが置いてある。そこにチケットのような物が、挟んであった。
手に取って、見る。
「…ブラジル、サンパウロ…」
「3日後のフライトだ。その日に、ここを発つ」
その声に、振り向くと、伊庭が部屋の入り口に立っていた。
「向こうで、取材してルポを書く。出版社と契約した」
「いつ帰って来るの?」
「半年…1年か2年かも。分からない」
紫乃の目が、見開かれる。涙が溢れそうになっている。
「…帰って来ないかもしれないの?」
感情を堪えているのが、伝わってくる。叫び出しそうな自分を、抑えている。
「…すまない」
堪えきれなくなった紫乃の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「…分かってる、あなたはずっとここに居られない。最初から終わりが来る事は、覚悟してた。それでも、いいと思ったのは私だから。でも…」
涙を、手で拭う。
「…いいえ。だから、謝らないで。大丈夫だから」
涙が止まらないのに、笑おうとする。その表情が、崩れてまた泣き顔になる。
「…紫乃」
伊庭が、紫乃の肩を掴んで引き寄せる。伊庭の胸に抱えられて、顔を埋める。小さく首を横に振る。
愛おしさが胸に迫る。
そのまま、強く抱き締める。ずっとこうしていたい、と思う。一緒に生きていきたいと。
しかし、それが叶わないという事は、伊庭が一番よく分かっていた。自分は、まだ昇華しきれない思いを抱えている。そのせいで、真っ直ぐに自分をぶつけて来る紫乃に、きちんと応えてやれない。
このままでは、同じ思いを共有することができない。まだ自分には、過去と向き合う時間が必要だ、と伊庭は思う。
紫乃との出会いで、自分の止まっていた時間が、再び動き出したことは確かだ。だからこそ、自分自身と向き合い、前に進む必要がある。
『苦しい現実であっても、今を生きるしかないんだ』
あの日、口にした言葉が蘇る。あれは、伊庭自身の決心だった。
最初のコメントを投稿しよう!