第16話 桜、散る

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 最後の夜が、辺りを満たす。  部屋の片隅に、カーキ色のバックパックが立て掛けられている。  窓に貼られた新聞紙は、茶色に色褪せている。その破れ目から、月光が差し込んで、闇の中に淡い光を投げかけている。  夜の帷が落ちたベッドの上の、紫乃の白い肢体が、儚げに浮かび上がる。  伊庭が、腕の中の紫乃の頬に触れる。その手に、紫乃の手がそっと重ねられる。  互いの視線が、互いを捉える。  唇が重なる。ゆっくりと離れる。確かめるように、再び唇を合わせ、舌を絡め合う。  見つめ合う目が熱を帯びてくる。目を閉じると、相手が消えてしまいそうな気がして、見つめあったまま、愛し合う。  伊庭の熱が、自分の熱くとろけた部分と同化する。もっと深く、もっと…強くと、自分から求めていく。  …このまま一つに溶けてしまえれば、いいのに…。そうすれば、離れて行かなくても済むのに…。  紫乃の声が、嗚咽に変わる。堪えていても、涙が溢れて、両頬を伝う。  伊庭にしがみつき、背中に腕を回す。涙に、気付かれないように。  それでも、嗚咽が溢れて来るのを止められない。  伊庭の熱い迸りを、何度も自身の中に受け止めた。  それでも、まだこの時間が続くことを望むのを止められない。  悲しみと悦びが、大きな波となって、何度も紫乃を飲み込んだ。  いつの間にか、眠ってしまったらしい。  衣擦れの音で、目覚めた。伊庭が背を向けて、身支度をしている。    目を閉じたまま、寝たふりをする。  やがて、荷物を持ち上げて、ベッドに近づく音がした。 「紫乃…」  伊庭の手が髪に触れる。それでも、目を開けなかった。  少しして、足音が去って行き、部屋のドアが閉じられた。  その瞬間、紫乃はバッと身を起こした。  スエットの上下を素早く着て、部屋を飛び出す。  玄関の扉を開いて、外に出る。 「伊庭さん!!」  そこに、伊庭の姿は無かった。  角を曲がっていく、タクシーのテールランプが見える。  突然、紫乃は走り出した。  タクシーが、去って行ったのとは、逆方向に。  自分を遠ざけなければ、追い縋ってしまうから。  坂道を、登って行く。息を切らし、山へと走る。  涙で、前が見えない。拭いながら、走る。  大きなカーブの先に、校門が見える。そのまま、校庭の端まで、走っていく。  正面から、朝日が昇ってくる。その時、風がひと吹き流れた。朝日に輝きながら、桜の樹々がうねる。滝のように桜の花びらが舞い散る。紫乃を包んで、渦を巻き降りしきる。  花びらの洪水を掻き分け、フェンスまで、辿り着く。坂道のずっと先に、伊庭を乗せたタクシーが消えていく。 「伊庭さん!!」  再び、風が吹き立つ。紫乃の髪と花びらを巻き上げる。 「伊庭さん…好きなの。行かないで…あなたが、好き…」  涙がとめどなく流れる。    とうとう、言えなかった。言いたかったけど、言わなかった。  今更、声を出して言っても遅いのは、重々承知だ。  でも…聞こえなくても、届かなくても、言いたかった。 「あなたを、愛してる…」  桜が散る。季節が逝く。  朝日が昇る。一日が始まる。   『時間と共に、前に進むしかないんだ』  伊庭の声が、耳に蘇る。    頬を伝う涙をそのままに、紫乃は、音もなく散る桜の中、いつまでも、朝日を見つめていた。
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