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最後の夜が、辺りを満たす。
部屋の片隅に、カーキ色のバックパックが立て掛けられている。
窓に貼られた新聞紙は、茶色に色褪せている。その破れ目から、月光が差し込んで、闇の中に淡い光を投げかけている。
夜の帷が落ちたベッドの上の、紫乃の白い肢体が、儚げに浮かび上がる。
伊庭が、腕の中の紫乃の頬に触れる。その手に、紫乃の手がそっと重ねられる。
互いの視線が、互いを捉える。
唇が重なる。ゆっくりと離れる。確かめるように、再び唇を合わせ、舌を絡め合う。
見つめ合う目が熱を帯びてくる。目を閉じると、相手が消えてしまいそうな気がして、見つめあったまま、愛し合う。
伊庭の熱が、自分の熱くとろけた部分と同化する。もっと深く、もっと…強くと、自分から求めていく。
…このまま一つに溶けてしまえれば、いいのに…。そうすれば、離れて行かなくても済むのに…。
紫乃の声が、嗚咽に変わる。堪えていても、涙が溢れて、両頬を伝う。
伊庭にしがみつき、背中に腕を回す。涙に、気付かれないように。
それでも、嗚咽が溢れて来るのを止められない。
伊庭の熱い迸りを、何度も自身の中に受け止めた。
それでも、まだこの時間が続くことを望むのを止められない。
悲しみと悦びが、大きな波となって、何度も紫乃を飲み込んだ。
いつの間にか、眠ってしまったらしい。
衣擦れの音で、目覚めた。伊庭が背を向けて、身支度をしている。
目を閉じたまま、寝たふりをする。
やがて、荷物を持ち上げて、ベッドに近づく音がした。
「紫乃…」
伊庭の手が髪に触れる。それでも、目を開けなかった。
少しして、足音が去って行き、部屋のドアが閉じられた。
その瞬間、紫乃はバッと身を起こした。
スエットの上下を素早く着て、部屋を飛び出す。
玄関の扉を開いて、外に出る。
「伊庭さん!!」
そこに、伊庭の姿は無かった。
角を曲がっていく、タクシーのテールランプが見える。
突然、紫乃は走り出した。
タクシーが、去って行ったのとは、逆方向に。
自分を遠ざけなければ、追い縋ってしまうから。
坂道を、登って行く。息を切らし、山へと走る。
涙で、前が見えない。拭いながら、走る。
大きなカーブの先に、校門が見える。そのまま、校庭の端まで、走っていく。
正面から、朝日が昇ってくる。その時、風がひと吹き流れた。朝日に輝きながら、桜の樹々がうねる。滝のように桜の花びらが舞い散る。紫乃を包んで、渦を巻き降りしきる。
花びらの洪水を掻き分け、フェンスまで、辿り着く。坂道のずっと先に、伊庭を乗せたタクシーが消えていく。
「伊庭さん!!」
再び、風が吹き立つ。紫乃の髪と花びらを巻き上げる。
「伊庭さん…好きなの。行かないで…あなたが、好き…」
涙がとめどなく流れる。
とうとう、言えなかった。言いたかったけど、言わなかった。
今更、声を出して言っても遅いのは、重々承知だ。
でも…聞こえなくても、届かなくても、言いたかった。
「あなたを、愛してる…」
桜が散る。季節が逝く。
朝日が昇る。一日が始まる。
『時間と共に、前に進むしかないんだ』
伊庭の声が、耳に蘇る。
頬を伝う涙をそのままに、紫乃は、音もなく散る桜の中、いつまでも、朝日を見つめていた。
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