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エピローグ
伊庭は、愛車のセダンを紫乃の元に置いて行った。パソコンテーブルの上に、キーと共に、
『コイツを頼む』
という、書き置きがあった。
「…ばか、私、免許、持ってない」
その場にいない相手に、悪態をついた。
…小説を書こう。
紫乃は、キーボードに向かった。
今なら、人の心に響く物語を、生み出すことができる気がした。
伊庭が、紫乃の中に残したもの、それを全て言葉にして昇華したかった。伊庭の言葉、仕草、そして、熱い抱擁。今もなお消えずに燃え続ける、苦しいほどの愛しさ。
一心に書き上げた。
時間は、前に進むが、ちっとも優しくないことを知った。思いを風化させるどころか、さらに募らせる。
街に吹く風が、冬の訪れを告げる頃、紫乃の応募した『小説冬夏』から、入賞の知らせが届いた。
惜しくも、大賞ではなかった。それでも、審査員特別賞に選ばれ、副賞として30万円を進呈された。
紫乃は、迷わず、それを自動車の運転免許を取る資金に充てた。
樹は、紫乃が小説に没頭して、自分に全く無反応なのに業を煮やして、勉強を始めた。そして、奨学金と授業料免除というおまけ付きで、医大に合格してしまった。
並の頭脳じゃなかった…と、誰もが舌を巻いた。
『那須華』を貸し切って、お祝いをした。
「医者になれば、紫乃だって俺とのことを考えるだろ」
「6年もかかるのよ」
「なんの、その時、まだ30そこそこじゃん。余裕だよ。今の伊庭さんよりずっと若い」
言ってから、慌てて紫乃を見る。
「…連絡ないの?」
「連絡は一切しないことにしたの。途切れた時、心配でたまらなくなる」
紫乃は柔らかく微笑む。寂しげだが、ドキッとするほど、妖艶な表情に見えた。
真冬の厳しさが和らいだ頃、『小説冬夏』の編集部から、連絡があった。入賞した小説の書籍化を打診してきた。
久しぶりに、首都へ行く電車に乗る。
編集部で、出迎えたのは、あの黒縁メガネだった。
「書き直しが必要な部分はあるが、そこを折衝しながら、書籍化に向けて、練り上げてもらいたい。どうしますか?」
紫乃は、相手を正面から見据えて、余裕の笑みを浮かべ、
「いいでしょう。お受けします」
と、きっぱり言った。
黒縁メガネは、少々面食らったような顔をしている。
「変わったね。何があったの?」
紫乃は、少し考えてから、言った。
「自分以外の人間のことを、自分より大事に思うことを、教えてくれた人がいたので…」
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