エピローグ

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「ねえ、マスター、アイツ、ずっと直角に椅子に座ったままだよ。いつも鯱鉾張(しゃちほこば)ってるけど、今日は特にカッチコチじゃん」  樹が、奥の席に座る堂本を見ながら言う。  堂本は、非番の度に、『那須華』にやって来ては、1時間ほどコーヒー1杯で粘る。もちろん、お目当ては、紫乃だ。一言二言、話すだけだが。  今日は、いつものくたびれたスーツではなくて、イヤにパリッとした格好をしている。小さな花束まで、持って来たようだ。嫌な予感しかしない。 「何でも、今日は朝の占いで、最高の運勢だったから、思い切って告白するつもりなんだってさー」  滝澤が、間延びした声音で言う。 「冗談じゃない!あんなヤツ!…紫乃がOKする訳ないだろ!…ところで、紫乃は?」 「コーヒーの出前。そろそろ帰ってくるよー」  『那須華』と隣のビルとの間には、歩道の脇に小さな花壇があった。そこに1本だけ、まだ若い桜の木がある。  紫乃は、それを見上げていた。細い枝に一つ二つ、儚げな桜の花が咲いていた。 (あれから、1年経つ…。もう戻らないのかもしれない…)  見上げる瞳から、涙が一筋流れ落ちる。  覚悟はしていたはずだった。約束もせずに別れた。でも、心の何処かで自分の元に帰ってくると、期待していた。願っていた。  しかし、日を追うごとに、その願いは叶わないのだと、思い知らされる。  …あなたに、会いたい。もう一度だけでいい…。  その思いが、紫乃を苦しめる。心が削り取られていく。この喪失感は、時間が流れても消えることはない。一層強くなるばかりだ。  涙を拳で拭う。頬を擦る。 「ただいま戻りました!」 「紫乃!お帰り!」 「樹、来てたの?大学は?」 「昨日、アパートを移ったよ。来週から始まる。ここに来るのが遠くなるのが嫌だなー」  樹がため息を吐く。 「何言ってるの、すごいじゃない。医大生だもの。頑張ってね」 「紫乃ちゃん、奥の席、オーダーお願いー」  マスターが促すが、樹は口をへの字に曲げる。 「いらっしゃいませ。ご注文は?」  堂本が、弾かれたように立ち上がる。 「あ、あの、紫乃さん!自分は…」  その時、店の扉が開いた。 「いらっしゃいま…」  振り向いた紫乃の声が、途切れる。  双眸が見開かれる。息を呑む。口は半開きのまま、固まってしまった。  涙で相手の顔が滲む。 「…紫乃、今戻った…」  その言葉が終わらないうちに、紫乃が彼の胸の中に飛び込む。嗚咽が堪え切れない。今までの、思いをぶつけるように、胸に顔を埋めて泣きじゃくる。 「伊庭さん、お帰り」  樹が、泣き笑いのような顔で、言う。 「いつまでいられるの?」 「ああ、ルポをまとめて出版することになった。しばらくは掛かる」  そして、腕の中にいる紫乃に呟く。 「…紫乃、ただいま…」   涙で濡れた顔を上げて、紫乃が伊庭を見る。また、新たな涙が溢れてくる。  唇が震える。言いたい事が、山ほどあるのに言葉が、出ない。  紫乃を抱きしめたまま、滝澤に声を掛ける。 「あのー、マスター、紫乃は早退していいかな?」  伊庭の問いに、 「いーよー。何なら、明日、休んでいいよー」 と、相変わらず間延びした調子で答える。 「ありがとう。お言葉に甘えるよ」  そのまま紫乃を抱えて、店を出て行った。  樹がため息を吐きながら、呆然と立ったままの堂本を振り返った。 「…と言う訳だから、アンタの出番はないよ。諦めな。…もちろん、俺は諦めないけどね」  店を出て、伊庭は桜の若木の所で、足を止めた。 「桜、咲いたんだな…」  小さな花を見上げ、紫乃に目を戻す。 「…1年かかったな。すまん」  紫乃が涙で潤んだ目で、見つめる。  …今、言葉に出さないと、死ぬほど後悔する…。  そう思って、嗚咽を堪えて震える唇から、言葉を絞り出した。 「伊庭さん、好きなの。もうどこにも行かないで。私の側にいて。好きなの、あなたのことが。ずっと苦しかった。会いたかった…」  …やっと言えた。あの時、散っていく桜に向かって叫んだ届かない言葉を、今、やっと伊庭に言うことができた。自分の心を、全て伊庭に向けて解き放つことができた。もう、それだけで満足だった。 「紫乃、ずっとお前の側にいる。お前がいらないと言うまで。お前が何より大切だ、自分の命よりも。…遠く離れてみて、痛いほどよく分かった」  唇を塞ぐ。息を詰める。 「…愛してる、紫乃」  紫乃が、伊庭の腕の中で、驚いて目を見張っている。  その顔を見て、愛おしさが込み上げてくる。伊庭が、紫乃の髪にそっと唇を寄せる。 「帰ろう。あの家に」  紫乃が困ったように言う。 「でも、布団もストーブもないわ。大垣さんに返しちゃったから」  伊庭が、紫乃を見つめて笑う。 「そんな物いらないさ。お前さえいれば、充分だ」  紫乃を引き寄せ、そっと唇を重ねる。  そのままずっと、いつまでも互いの命を抱きしめていた。  二人の上で、小さな桜の花が微笑むように、揺れていた。    了 ◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎ ◻︎◻︎◻︎◻︎ あとがきにかえて  桜が散らないうちに!と思って、一気に書いてしまいました。  大変、雑な文章になってしまったことを、心よりお詫び申し上げます。  今回、初めてのミステリー(っぽい)ものを書いてみて、その難しさに仰天しました。それでも、何事も経験だ!とばかりに、突っ走ってしまいました。こんな暴走にお付き合い下さり、最後までお読みいただいた皆様、本当にありがとうございました。  また、懲りもせず、次は何を書こうかなーと検討してます。  今回の感想などを、お寄せいただければ、幸いです。                            紅葉(くれは)
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