金魚と夏祭り

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 最近、白いダウンを買った。ネットでなんか良いのないかな、と探していたのだけど、なかなか見つからず、定価の三割引きになっていた、という理由だけで買ってしまった。  シルエットが少し窮屈で、正直あまり気に入っていない。もう少しダボっと膨らんだものを想像していたのだけど、文句を言っても開封してきてしまったのだからもう遅い。一人暮らしでお金もないから、私はこれを着る他にない。  しかし、寒さを凌げているのが悔しい。飾りとしての機能と、防寒着としての機能、両方欠けていたなら、私は完全な被害者になれただろう。しかし、悲しいかな、ダウンという壁に守られた私の体は十分に温められていた。手が冷たく悴んでいたのだけど、どんな上着でも同じだろう、と粗探しに躍起になっている自分が悲しくなった。  最寄駅から大学への通学路には川が流れていて、私はいつも川沿いを歩いている。割と綺麗に舗装されていて、土手の上には桜が植えられ、奥に車道が走っている。そこまで大きな道ではないから、車通りも少なく、水のうねる音が聞こえる。歩いていると、あぁ好きだな、と思う。  下流から水の流れに逆らって風が吹く。冷たい風にさらされた手を守るように、ポッケに手を突っ込むと、指先に空気よりも確かで、生き物のようにとくんとくんと波打つ、柔らかい水に触れた。右のポケットを除くと、そこには一匹の金魚が泳いでいた。  金魚は不定期で私のポケットの中に現れる。それは上着のポケットかもしれないし、ズボン、リュック、さらには財布の中にまで現れたことがある。その時は、お金を取り出すことができず、後ろに並ぶ人たちに睨まれた。  右手の人差し指を伸ばし、水面をなぞってかき混ぜる。くるくる回すと、水の腹に柔らかい水が触れて気持ちがいい。向かい風の冷たさは痛く、水の冷たさは心地が良かった。  チョン、と指の先に金魚が触れた。その姿形は、あの夏祭りの日から全く変わっておらず、赤い皮膚の光沢は太陽で磨いたように輝いている。いつまでいるのだろうか、と金魚を触ろうと指を水の中に入れると、さっとポケットの奥の方に消えていった。  金魚が現れるときだけ、ポケットの奥行きは海のように深くなる。以前、どこに底があるのだろうか、と腕を突っ込んだら肘まで入ってしまい、慌てて抜いた。  あの夏祭りの日、楽しかった、という何とも短絡的な感想だけを家に持ち帰った私は、ベッドに入るまで金魚の存在を忘れていた。薄い掛け布団を腹に敷いて、扇風機の電源を切ったとき、私はカンちゃんからもらった金魚がないことに気づいた。私はそのことを、未だにカンちゃんに伝えていない。  金魚をくれたカンちゃんは、中学に上がって引っ越してしまった。その時は寂しくておいおい泣いていたのだけど、歳を重ねるごとに出会いが重なり、別れが風化して、ついに今年、年賀状は来なかった。  しかし、本当は、もっと早く終わっていたのだと思う。年賀状裏の家族写真はいつからか味気ない動物のプリントに変わって、文も年々減っていった。感情の湧かない相手に言葉など綴れまい。私も、ここ数年前から何を書けば良いのか困り、頭を絞って滲んだ汁を薄めて書いた。  カンちゃんとの交流は無くなったが、金魚は確かに居る。まさかあの時は、カンちゃんよりも金魚の縁の方が長く続くとは思わなかった。  指に金魚が触れた。私に返事をするように、また水面に現れた。私が死ぬまでそこにいてくれるだろうか。どこかへいってしまっても、私は覚えてられるだろうか。  手をポケットから出す。風が吹く。濡れた指先に冬の風はよく沁みる。私はもう一度ポケットに手を押し込んだ。綿の感触がした。そこにはもう、金魚はいなかった。  
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