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島は岩場に縁取られ透き通った海水に囲まれていた。
港湾沿いの街中には、赤・黄・青に鮮やかに彩色され舳先にオシリスの眼を開いた小舟が海を臨み、陽の下に海洋を漁る者たちが行き交った。
豊かな魚介の恵みで島の暮らしは回り、漁師らは海を畏れつつ舟を操り漁をしていたが、どれほど熟練した者も舟で近づかない場所があった。
荒い磯が広く続き、汀も複雑な岩が露出した区域でその海域は水面化の地形も複雑で舟の安全な航行は出来ない。
海から舟で入れない分、陸側から入り、磯の貝や蟹を獲ったり、素潜りでの漁をする者にとっての場所だった。
かつては嵐で呼び込まれた大型船が、座礁で船底に大穴を開け海中に引き込まれた。
積まれた船荷には高価な貴金属や美術品もあったという話もあるが、ほぼ現在にかけてダイバーらの手で価値あるものは既に引き上げられ目ぼしいものは残っていない。
漁師街には少年、素潜りの得意なコーラがいた。
誰よりも巧みに長く潜水できたコーラは、島の者に魚の生まれ変わりだと言われた。
岩場の汀から海に潜り、長い時間をかけて海面に上がってきて、他の者たちよりも一回り大きな獲物を持ち帰った。
コーラは海にしか興味ないように日々泳ぐばかりで、家族も心配するような次第だったが、彼の持ち帰る海の幸を喜び敢えていさめはしなかった。
同じ漁師街のレナータはまだ十代の娘だった。
同じ年代の少女たちの中で目立たない容姿で物静か、遊び仲間も少ない。
いつの頃からか、レナータはコーラに恋をしていた。
どちらも、まだ大人になっていない子供というべき身体だったが、そばかすの散るあどけない顔の下、レナータの感情は膨らんでいた。
磯に向かうコーラを見かけると、密かに後をつけ、海に潜る姿を遠くから見守るようになっていた。
話しかける勇気もなく、浮上した彼を確認すると、見つからないように身を隠しながら帰宅した。
レナータを気にする者はほとんどいなかったのだが、数少ない友人のボナは彼女の様子からその気持ちを知っていた。
「コーラが何故くる日もくる日も海に潜るのか知ってる?」ボナはレナータに告げた。「素潜りの目的は魚獲りじゃないのを知ってた?あたしの兄さんが言うには別の目的があるんだって。何人かの人だけにコーラが話したことがある秘密なんだけど。」
レナータははやる気持ちを隠しながらボナの話を聴いた。
「あの辺り、昔から難破した船の積荷が沈んだ場所って言われてるでしょう。届く限りの場所には潜水夫がもうあらかたかっさらっていったって言うけど、コーラはどの潜水夫よりも深く潜ってまだ手付かずの宝のある水深まで降りているらしいの。……そこには引き上げられないまま海神の財産になった積荷がまだ沢山ある……」
「コーラはそれを持ち帰らないの?」
「持ち帰られる物もあるかもしれないけれど、コーラは海の神様のものだからって手を付けないらしい。そこまで潜れることの方が大事だから。でももう一つ大事な目的があってね」
意味ありげにレナータの顔を覗き込んだボナは声を潜めた。
「もう人には絶対に引き上げられない積荷の中には、古い時代の石像があるんだって。コーラはいつもその石像に会いに潜ってるんだって」
「石像に?」
「見たこともないとっても綺麗な女神の石像が潜水夫にも潜れない深さにあるって」
レナータの心に曇りが生じた。
「コーラは友達にだけそんな話をしてたらしいけれど本当かどうか分からない。そこまで潜れないあたしらには確かめようがないんだもの」
海に潜りに行くのは女神像に会うため、そんなボナの話で、レナータの心は乱れた。
レナータは、コーラが自分の家にあまりいつかず海にいる理由の一つを知っていた。
実の母親と早くに死別した後、父の再婚相手が新しい母親になったが、連子とともにやってきたその義母とコーラは上手くいっていなかった。
そのこともあり、今のコーラには「母親はいない」という気分らしいというのは知っていた。
大人の女性への思慕は、そんなところからきているのではないか。
ある昼、寝台の上でレナータは午睡の夢うつつの中にいた。
コーラは女神に心を奪われているのだろうか、と思うと、見た筈のない女神像に対する何とも言えない嫉妬が溢れてくるのが分かった。
コーラに対する気持ちがどれほど膨らもうと、いまだ子供のままの自身の身体には彼の心を捉えるものが無いのだ、という事実が恨めしかった。
レナータの頭が彼のことでいっぱいになった時に、夢の世界に滑り込んでいた。
青空の色をそのまま取り込んで揺らめく海面がはるか頭上にあった。
レナータは海水のベールに巻かれた石の女神像の自分を見出した。
両手を広げ何かを待つように、頭上から注ぐ青い光を浴びながらただ立っていた。
難破した船から放り出され、誰からも忘れ去られた長く孤独な時間を女神像は過ごしていた。
魚や甲殻類だけが眼に写り、身体には固着動物が貼り付いて魚礁のように本来の姿を失いつつあった。
水の重さと深さに阻まれ人間が届かない場所で、女神は誰よりも無力だった。
ふと女神は一つの影が降りてくるのを見た。
影は、数多の生物に覆われた女神像の周りを巡るとちょうど顔の前に泳ぎ来て女神像の耳元に手を当てた。
そうして顔に付着した生物を汚れを拭い去ると幾世紀振りか、女神は素顔を現した。
女神であるレナータは潜るその影がコーラのものだと知っていた。
水面に戻り、再び潜ってきたコーラは少しづつ女神の……レナータの身体を手で撫でるように拭い、石像本来の姿を取り戻した。
顔を覗き込むコーラの顔が正面にあった。
女神像のレナータは夢心地の中にあった。
コーラが海に潜りに行くタイミングで、レナータは午睡をとるようになった。
夢かも分からない、しかし夢の中でコーラがいつも会いに来る。
そうして女神像のレナータを慈しむように愛撫し、最後、浮上する間際に接吻を残していく。
目覚めたレナータは大いなる幸福感と、果てしない渇望を感じて起き上がるのだった。
レナータはこれがいつまで続くのだろうか、と考えていた。
生身の自分は少しづつ本当の大人の時間を迎えるだろう、その時にもコーラが思うのはあの女神像だけなのか、それとも地上の女性が彼の心をとらえるのか。
果たして自分がコーラの心を捉えられるのかと思うと限りなく望みは無いように思えた。
彼女が彼の接吻を受けられるのは、女神像である時だけなのだ。
だから、午睡の夢で女神レナータは……その日接吻したコーラを広げていた腕を閉じて抱きしめた。
大きな震えが海を揺さぶる中で、驚きと恐怖に満ちたコーラの顔を見ながら、女神レナータは彼を抱擁しながら更に深い水に落ちていった。
その日、島の活火山が噴火し、大きな振動が島全体に行き渡った。
午睡の途切れたレナータは混乱状態の街を抜けコーラのいる筈の磯に向かった。
その日コーラは海から戻らなかった。
噴火の振動の及んだ海中で崩れた岩に巻き込まれた、と言う者がいた。
その後もコーラは帰っていない。
レナータは女神像を夢見ることも無くなり大人の女性になった。
そうして今もこの島の海の深いところに、人魚になったコーラが女神像とともに生きていることを知っている。
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