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「神田選手、ボクと父さん、ずっと待ってるからね!」
少年の声に俺は少しだけ、ほんの少しだけ心が震えた。
ユウコが俺の脇に立って歩く。
「墓参り行って来いって」
「余計なお世話だ」
「ヤマじぃ待ってるんだよ。それに、」
「それに、何だよ」
「天国のタカちゃんも待ってるよ」
俺はユウコを睨む。
「タカちゃんきっとこう思ってるわ。『神田の奴、俺のことでリングから降りるなんて考えてんじゃねぇか。それじゃまるで俺が悪者みたいだろうが』って」
「うるさい。お前に何が判る!?」
「そうでーす。私はなーにも判りませんよ。でもね誰も悪くないのよ。それを自分のせいにしているカンちゃんって傲慢じゃない」
ユウコの眼は哀れんで俺を見ているようだ。
「とにかく放っておいてくれ」
俺はアパートへ戻った。シャワーを浴びてまた寝転がった。
ユウコの言う通りかもしれない。俺は傲慢なのかもしれない。
天井から視線を窓に向けると、夕暮れどきの茜色の空に、カラスが数羽飛んでいた。
翌朝、外へ出ようとドアを開けたとき、何かに引っ掛かった。足許の先を見ればボクシンググラブが置かれていた。どうせユウコが置いたのだろう。もう使わない物だ、捨ててしまえ。
「――ん?」
これは俺のじゃない。高橋のだ。あいつのグラブを持っているのはヤマじぃだ。高橋が他のジムに移るとき置いていった。心機一転したいからと。奴は俺と対戦したいからと、余所へ行ったらしいが本当のことは判らない。
「おやじさん、何の真似だ。嫌がらせか」
グラブを突き出す。
「わしゃ知らんぞ」
「嘘つけ」
「嘘だと思うなら勝手にそう思っとけ。しかしな、知らんもんは知らん」
ヤマじぃはどうやら本当に知らないようだ。じゃあいったい誰が。ユウコか。
「神田よ、お前はいつも中途半端だな。ボクシングを本気で辞めるなら辞めるで、ケジメつけろや。酒に溺れて解決できると思っているのか」
「――」
「天国で高橋が嘆いているだろうよ。もしも立場が逆だったら、奴はお前の分までリングに立って闘うはずだ」
「うるせえ!!」
俺は顏を歪めて、ジムから駆け出した。
どいつもこいつも、俺の気持ちも知らねぇで!!
俺はとにかく走った。どこをどう走ったのか覚えていない。辿り着いた所は高橋との試合を行ったホールだった。
俺はぼんやり試合会場の開館を眺めた。
あの日のことが、まるで昨日のことのように思えてならない。
左手の拳が震える。
ポン、と誰かに肩を叩かれ振り向くと、見知らぬ女の人だった。でもどこかで見たような気もする。
「ようやくお会いできました」
「あなたは?」
「高橋の姉です」
「お姉さん? あいつに姉がいた?」
「聴いていないのも当然です。私と弟は幼少のときに別れているので。弟は父に私は母に引き取られたものですから」
確かに似ている。だから見たことあるように思ったのだ。
「もしかして、あのグラブは、」
「私です。神田さんにボクシングを辞めて欲しくないので。弟もそう思っているはずです」
「――でも、」
「あの子の魂と共に、リングに上がってもらえないでしょうか」
「――」
「急ぐことはありません。弟も私も待っていますから」
そう言うと高橋の姉は微笑した。その微笑は穏やかで優しかった。
俺はふと天を仰いだ。
晴れ渡る青空に白い雲がゆるりと流れている。
(おい高橋、俺、リングに立ってもいいのか)
と心の中で問い掛けた。
『当然だろう』
高橋の声が聞こえた気がした。
もう一度、リングに立とう。
俺は心に決めた。
~END~
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