誘惑

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誘惑

直美は、月に一度は川越駅の駅ビルにある美容院へ行く。 曲のないストレートの黒髪は、自分でもお気に入りで長く伸ばしている。 毛先のカットとトリートメントを怠りはしない。 予約時間は、日曜日の午後1時。 15分前に直美は店のドアを開けた。 「原田です。」 受付で名前を告げると、直美を担当しているスタイリストの入戸野が応対した。 「もう直ぐ準備が出来ますので、あちらの部屋でお待ち下さい。」 担当するスタイリストの入戸野は、15年のキャリアを持っベテランで、直美は彼女にすべて任せている。 直美は、入戸野に微笑んで軽くお辞儀をすると、ロビーへ入って行った。 ソファーが丸く円を描く様に配置され、リラックス出来る音楽と、セルフサービスではあるが、色々なソフトドリンクが飲める様になっている。 部屋の壁には、いわさきちひろの絵が飾られている。 ちひろの明るく、爽やかな絵を、安曇野の美術館で修一と初めて見た時は、何とも優しい気持ちになった事を覚えている。 真田も大好きだった。ちひろ・・・ 彼女は、ちひろの大ファンであるが、私とは筆の勢いが違うと言って、神のように崇めていた。 あんなに優しい絵はちひろ以外、誰にも描けないらしい。 そして、彼女の送別会の時の事を思い出した。 兼子が真田へ、本当の妹の様に思っていた事を打ち明けると、真田の瞳から涙が溢れ出た。 それは直美も一緒であった。そして木下も、皆、真田を妹の様に思っていた。 彼女が企画課を去って一週間。 どうしているかな。 直美は、お気に入りのファッション雑誌をラックから抜き取りソファーへ腰掛けるとページを捲り始めた。 しばらくして珈琲でも飲もうと立ち上がろうとした時、 「ちょっとすみません。」 若い女性が直美へ声を掛けて来た。 二十歳そこそこのスタイルの良い美人な娘である。 「お隣、良いですか?」 ロビーには、直美を含めて5人。座るスペースは他にも十分にあるのに………そう思ったが、 「どうぞ。」 直美がそう言うと、彼女は隣に腰掛けた。 そして、バックから単行本を取り出すと読み始めた。 直美は、珈琲を取りにカウンターへ向かい、カップに注いで戻ろうとしたが、 ふと考えた。 このまま違う場所へ座り直す事も可能ではあるが、 しかし、雑誌はそのままであるし、違う場所へ移動したら相手にとっては、あまり良い気分ではない。 元の場所へ戻り、テーブルに珈琲を置くと再び雑誌を読み始めた。 すると隣から、 「髪、綺麗だわ。モデルさんですか?」 直美は思わず吹き出してしまった。 そして言った。 「あなたの方が、ずーっとモデルさんみたいに素敵よ。」 そう言うと直美は再び雑誌を捲り始めた。 「このお店、私、初めてなんですけど大丈夫ですよね。」 直美は、困惑した表情で相手を見たが、返す言葉もない。 その時、 「原田さん、どうぞこちらへ準備が整いました。」 担当スタイリストの入戸野が直美を呼んだ。 直美は、バックとコートを手に持つと、若い女性へ微笑み掛けて、 「お先に、あっ、それから大丈夫ですよ。この店のスタイリストは超一流だから。」 そう言うとロビーを出てサロンへ入った。 いつもの様に毛先をカットして、トリートメント剤をたっぷりと髪へ馴染ませると時間待ちである。 とても良い気持ちである。 瞳を閉じれば確実に眠ってしまうだろう。 うとうとしながら、ふと鏡を見ると、先程の若い女性が直美の隣へ座った。 「シャンプーとフェイスクレンジングお願いします。」 何となく、隣の会話が気になって聞き耳をたててしまう。 その会話から、どうやら彼女は大学生の様である。 「お待たせしました。」 そう言うと、入戸野のアシスタントは、長い髪を手際良く洗い、ブローを始めた。 ブローの強弱と温冷を繰り返す。 アシスタントの腕の見せどころでもある。 そしてスタイリストの入戸野がカットして調整する。 「お疲れ様でした。」 入戸野は、出来栄えを手鏡に写す。 「ありがとう!」 スタイリストは、客である直美の笑顔を確認する。 物の売買ではない。 技術の提供である。 それは、直美の仕事にも似ている。 清掃ロボットや美術品の提供は、技術ではないが、本来の清掃とは綺麗にする技術の追求である。 それを忘れてはならない。 直美は、常に自分へ言い聞かせている。 いつもなら店を出ると修一のマンションへと向かうが、修一は会社の慰安旅行で今夜遅くに帰って来る。 ひとりでぶらぶら。. 悪くはない。 駅ビルのエレベーターの入口へ向かって歩き出そうとした時、 「済みません!ちょっと待って下さい。」 自分ではない可能性もあるが、後ろを振り返ると、 先程、美容院で会った若い娘が小走りで向かって来る。 「原田さんですね、私、小平と申します。ちょっとお付き合いして頂けませんか!」 直美は、あっけにとられた。 ひとりで歩いていると、仕事帰り、プライベートな時間でも、男性から声を掛けられるナンパは、たまに経験するが、 相手は女性である。 「何の用かしら?」 直美は不思議そうな顔をして言った。 「とにかく、ちょっとだけ私とお茶して下さい。お願いします。」 … … …? 悪そうな娘ではないが初対面である。 「原田さんは、清掃関係のお仕事されているんですよね。私、その仕事に興味あるんです。」 「どうしてそれを…?」 「お願いします!」小平と名乗る娘は手を合わせて拝んだ。 そして直美の腕を取ると、エスコートする様に近くの喫茶店へと一緒に入った。 いささか強引ではあったが、必死になっている様子を直美は、少し愛らしく感じた。 仕方なく椅子に座ると、小平へ直美が話し掛けた。 「どうしたの?あなた何故、私の事を知ってるの?」 小平は、黙ってしまったが、視線は入口へと向いている。 「あの人の話を聞いて下さい。」 「あの人?」 直美は、店の入口に向けられた小平の視線に眼をやると、身なりの良い中年男性が近づいて来た。 男は静かに椅子に腰掛けると、 直美へ名刺を差し出した。 (株)SKS 営業部 部長 遠山 康 直美は、渡された名刺を見て、びっくりした。 それはライバル会社の部長である。 冷静にならなくては、 「この様な手段を使ってしまって申し訳ない。」 遠山は、静かに頭を下げた。 「手段……手段っていったい何の事ですか?」 そう言うと、直美は、注文したミルクティーを少し口へ含んだ。 「単刀直入に言います。あなたを我が社へ招きたい。」 遠山の喋りは、妙に落ち着いている。 直美は、ようやく自分がここに居る意味が分かった。 「彼女を使わなければ、あなたは多分、私共に会っては頂けない。」 そう言うと、遠山は条件を提示した。 給与は今の倍。 住まいは横浜の山下に賃貸マンションを社宅として提供。 身分は、本社営業の企画部長。 「どうでしょう原田さん、あなたの実力を我が社で今以上に育む環境を提供します。」 遠山は、直美から視線を外さない。 そして、 「十分にお考え頂き、承知いだだけるのならばここへ連絡下さい。」 遠山は、そう言うとプライベートな携帯番号を書き込んだメモを直美へ渡した。 「それでは、失礼します。」 隣に座っている小平を伴って席を立とうとした。 「お待ち下さい。」 直美は、ちょっと険しい表情になたが、直ぐに柔らかな表情へと変えた。 「遠山さんでしたね。」 ミルクティーを少し飲むと、 「このお話しは一切無かった事にして下さい。」 そう言うと、プライベートな連絡先のメモを遠山へ返した。 遠山は座り直すと、 「これ以上の条件が必要ならば、どうぞお聞かせ下さい。」 小平は、呆気にとられている。 直美は、首を左右に降って、 「私には、今の会社を辞める気など全くありません。ただそれだけです。」 そう言うと、レシートを持ってレジへ向かって歩き出した。 コートを忘れている。 小平は、慌てて直美の後を追って「済みませんでした。」そう言うと、コートを渡した。 「良いの、気にしないでね。」 直美は、笑顔で言うと会計を済ませて店を出た。 ライバル会社からのハンティング。 複雑な気持ちだった。 私に特殊な能力があるわけでもない。 でも、ライバル会社から必要とされている事実。 自分の力だけでは何も出来ない!組織を上手く活性化させてこそ、 もしかしたら、それが私の能力なのかもしれないが。 とにかく、もう忘れよう。 直美は、久しぶりにひとりでショッピングを楽しんだ。 誘惑… その頃、葛藤に悩み苦しむ兼子里美がいた。 兼子は、三上と付き合い始めている。 子供が居る事で、なかなか想うように三上に会えないが、 三上は、そんな兼子にプレッシャーを与えない様に気配りしていた。 挨拶メールは勿論、今日の出来事や、兼子へのラブメッセージも忘れはしない。 しかし、兼子は、なかなか時間が取れない。 実家へ子供を預けさえすれば… 兼子の両親にしてみれば、表面上は小言の一言や二言は言うが、 可愛い孫、嬉しくないはずはない。 でも… 一緒に居てあげたい!と言うよりは、一緒に居たい。 その一方で、三上にも会いたい。そして愛されたい。 そんな時、兼子の心の隙間を狙って、別れたはずの元旦那が再び彼女へ接近して来た。 それは、兼子が近くのスーパーで息子と一緒に買い物をしている時であった。 「里美!久しぶりだな。」 兼子は、とっさに振り向くと、険しい表情になり、 何も言わずに息子、航(わたる)の手を握って、その場を立ち去ろとした。 「待てよ里美!」 別れた元旦那の裕二は、兼子の後を追い掛けた。 場所が場所である。 それに、航も一緒である事から、醜態はお互いに避けたい。 「何でしょう?」 兼子は、裕二を睨み付ける。 でも、子供の前である事を自覚すると、直ぐに表情を和らげた。 「航、パパだぞ。何か買ってあげようか。」 裕二が優しく航に言った。 航は、直ぐに兼子の後ろへ隠れると、 「ママ、帰ろ。」 そう言うと、ショップカーを押し出した。 ママの表情が穏やかではない事を悟ったのだろう。 「里美、話したい事があるんだ。外で待ってる。」 そう言うと裕二は、我が子にウィンクをすると、 入口のある方へ歩き出した。 レジで会計を済ませると、ショップカーから品物を取り出して袋へ詰める。 航は、お菓子類を選び出して、丁寧に袋詰めをする。 「手伝おうか。」 再び裕二が現れて航へ声を掛けて来た。 兼子は呆れてしまって、袋を航から取り上げると、 スタスタと駐車場へと向かった。 航は、兼子の側を離れないが、時折振り向いては裕二の存在を確認する。 兼子は、車のドアを開けて、袋を無造作に後部座席へ置くと、 「航、乗って、帰るわよ。」 航は、ドアが開くと逃げる様に車へ乗り込んだ。 その時、 思いも寄らない言葉を裕二が発した。 「里美、やり直さないか……済まなかった。」 そう言うと名刺を渡した。 「この会社で真面目に働いている。勿論、独立して今はひとり暮らしだ。 勇気がいるよな。裏に俺の携帯番号が書いてある。連絡待ってる。」 そう言うと航へ微笑んで、その場を立ち去った。 何よ今更! あの時、あんなに嫌な思いをさせておきながら…… 「ママ、さっきの人は誰?」 後部座席から航が、ぽっりと言った。 ・・・ 「お仕事でちょっと知ってる人なの。」 航は、5歳である。パパだよと言った裕二の言葉をあえて口にしなかった。 そんな風に思うと瞳が潤む。 航、ごめんね。ママは、幸せになりたいの。 だから、あなたも絶対に幸せにしてあげるからね。 兼子は長沼の会社で、信頼出来る上司である直美、そして木下、後輩の真田は松本へ出向してしまったが、気持ち良く仕事をさせて貰っている。 給料は、同年代の男性社員と同等で、世間並み以上である。 航、ひとりなら金銭面での問題はない。 しかし・・・ 運動会等のイベントの時には、航に寂しい思いをさせてしまっている。 これから小学校、中学校そして高校、大学。 今の時代にバツイチなんて当たり前よ。珍しくはないから。 周りのそんな言葉でも少しは気持ちが楽にはなるが、やはり兼子は、夕食を作り出しても、航とお風呂へ入っても、絵本を読んで寝かしつけた後も 、 ふうーっ、ため息が出てしまう。 裕二の事が少しばかり気にはなっていた。 今まで、いや、あの時も裕二は謝った事など一度もなかった。 なのに何故?もしかしたら本気なのかも知れない。 そう想うと、また、それを否定する。 裕二から貰った名刺を兼子は、破り捨てるつもりであったが、財布の中からそっと取り出すと、活字に目をやった。 自動車販売の営業。 お金には困らない家庭に育ち、兼子と別れた後も高級車を乗りまわし、女遊びと賭事に溺れてると言う噂は、高校の同級生から聞いてはいたが、真面目になったのかしら。 それならそれで、彼も新しい幸せを見付ければ良い。 私は、三上さんが好き! 今更、裕二とよりを戻すなんて無理。焼酎を氷の入ったグラスに注ぎ込んで、少し呑むと、 裕二の名刺を破り捨てた。 しかし、裕二は、その後も兼子につきまとった。 どうして?何故?
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