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心の鍵
真田愛が松本支社へ出向して、まだ1ヶ月。
真田は、支社長の影山と忙しい日々を過ごしていた。
真田は本社、すなわち直美の企画課へ送る絵を選んでいた。
「支社長、この四枚の絵を送ります。」
真田が自信たっぷりに言った。
春夏秋冬の、安曇野の田園風景画。作者は、ご当地の画家である。
画家と言っても、趣味で描いている人がほとんどでプロではない。
「よし、決まりだ!」
影山は、そう言うと営業の東山を呼んだ。
「これを、本社へ届けてくれないか。それから真田さんを水沢先生のアトリエまで送ってくれ。」
「わかりました。」
東山は、25歳になったばかりで、真田のアシスタントをしている。
彼は、それが内心、面白くなかった。何で俺なんだ。
少しばかり絵が上手いだけだろうが、俺は運転手したくて会社へ入ったわけじゃねぇよ。
しかし、この男。営業成績はパッとしない。
「ご苦労様です東山さん。」
真田はそう言うと車に乗り込んだ。
毎週、月水金曜日の午後から、真田は俊太郎のアトリエへと行く。ガラス細工の技術を学んでいるのである。
移動中は、ほとんど、ふたりは会話をしない。
アトリエへ到着する約1時間の間、俊太郎から教えて貰った事を書き込んだノートを、後部座席で広げて読み返している。
今の彼女には、芸術の事しか頭になかった。
山道へ差し掛かり体が左右に振られて、ガタガタ揺れ出すと俊太郎のアトリエは近い。
「着きましたよ先生。」
彼は真田のレッスンが終わるまで待っていなくてはならない。
一応、パソコンで仕事はするが、退屈で仕方ない。
「東山さん、あなたもガラス細工しませんか?私を待っているのも退屈でしよ。」
「遠慮しときます。僕は体育は5でしたけど美術は2でしたから。」
そう言うと東山はパソコンを持って、囲炉裏のある部屋へ入った。
12月も中旬、チラチラと初雪は降ったが、まだ雪化粧はしていない。
それにしても寒い。
東山は、囲炉裏に小枝を放り投げる。ふうーっと息を吹きかける。すると炭火は生き返り、小枝を包み込んだ。
もう直ぐ俊太郎のアトリエも雪に覆われる。
真田は、俊太郎の吹いたガラスで、サンタクロースを制作していた。
それは、トナカイに引かれて、そりに乗ったサンタクロースてある。
絵と違って溶鉱炉のガラスを吹いて成型し、ブラストとバーナーの炎で形を造る。
エッチングではマスキングが透明感を左右する。
根気のいる作業で、やり直しが効かないだけあって、集中力は半端ではない。
俊太郎は真田へ、基礎的なプロセスは教えたが、技術的なアドバイスや手法を一切、教えていない。
ガラスの粉が、口や目に入らない様に、粉塵マスクと眼鏡を掛ける。
俊太郎は、真田の人並み外れた想像力が、ガラスや彫刻の立体物に通用するのかが楽しみであった。
真田の手がとまらないのは、イメージがあると言う事である。
途中で手がとまり眺めている様では、作品は死んでしまう。
俊太郎は、真田の作業を心を無にして見極める。
真田は、何も喋らない。
俊太郎が見ている事すら気付いてはいないのかもしれない。
「愛さん、今日はそれ位にしたらどうかな?」
俊太郎は、真田の魂を休ませてあげる事にした。
そうしてあげないと、時を忘れてのめり込んでしまう。
それは、肉体的には確実に悪いからである。
「はい、先生。」
真田は、その言葉で防塵マスクと眼鏡を外した。
「まだ、サンタクロースは粗削りだが、そりとトナカイは出来てるね。私には愛さんのサンタクロースが想像出来る。」
「はい、先生、クリスマスまでには完成させます。」
さすがに、この天才娘もサンタクロースの表情には慎重である。
何故ならば、それがこの作品の全てを決定してしまうからである。
「真田さん、そろそろ帰れますか?」
待ちくたびれた表情で東山が現れた。
「今直ぐ着替えて来ます。先生!明後日の金曜日もお願いします。」
俊太郎は、真田の作品に布を掛けると、
「早く、作品にしてあげないと逃げちゃうかもな。」
それほど、そりを引っ張るトナカイには躍動感があった。
やはり、あの娘・・・底知れない力を秘めている。
そして、いよいよ真田のサンタクロースが完成する日を迎える。
それは、クリスマスイブの前日、23日の祝日。
真田は、松本市内にマンションを借りている。
窓からは、常念岳を背にした松本城が見える。
朝の冷え込みが厳しくなる師走、松本駅から大糸線に乗って、信濃大町へと向かった。
平日ならば東山に頼めるが休日である。大糸線で秀麗の北アルプスを左に眺めながら行くのも気持ちが良い。
信濃大町からタクシーで俊太郎のアトリエを目指す。
松本駅には登山や、スキー、スノボーを担いだ人達で、ローカル線は賑わっている。
松本を出ると、北へ電車は走る。
終点は新潟県の糸魚川。
大町市までは、ほとんど雪は無いが、本格的な冬将軍が雪を運んでもう直ぐやって来る。
銀色に安曇野も包まれる・・・そして春を待つ。
真田は、信濃大町駅からタクシーに乗ると、俊太郎のアトリエを目指した。
ジグザグ坂の揺れを忘れるほど、真田はサンタクロースの顔をあれこれとイメージしていた。
俊太郎のアトリエへ着くと、いつもなら一緒にアトリエに入る東山が居ない事に寂しさを感じた。
「先生、今日は完成させます。」
真田は俊太郎へそう言うと、工房へ入って支度をした。
俊太郎は、真田の指を冷やさない様に火鉢を置くと、
「いよいよだな愛さん!」そう言うと工房から出て行った。
緊張感と平常心が交互に、あるいは、どちらかが一気に押し寄せて来る。
その波、すなわち波長が上手く重なった時に芸術家は仕事をする。
一瞬たりとも迷ってはならない。
真田は、しばらく目を閉じて呼吸を整えた。
イメージは既に出来上がっている。
真田は、サンタクロースの髭や髪をバーナーの炎で仕上げて行く。
クリスマスイブ、正月、子供の頃はケーキやご馳走を家族揃って皆で食べるのが楽しみだった。
「あれっ、玄関で今、何か物音がしたよ。」
母親が愛とふたりの弟に言う。
父親がデパートで買って来たプレゼントを玄関に置くと風呂場へ隠れた。
玄関へダッシュ!
そこには三人のプレゼントが置かれいた。
「良かったな。お前達が今年も良い子だったから、サンタクロースは来てくれた。」
父親が嬉しそうにそう言った。
その時!
真田は、サンタクロースの瞳を削り出す作業へ入った。
父親の優しい顔!あの笑顔!あの口元!
気持ちが走った。
瞳から鼻、そして口元、頬や耳、飲食を忘れ真田はのめり込んだ。
俊太郎は、昼過ぎても休憩をしない真田に声を掛けようとしたが、微かな炎で仕上げている真田の後ろ姿を確認すると、そっと見守っていた。
しかし、さすがに辺りが薄暗くなった夕方の4時。
俊太郎は、立ち上がると工房へと向かった。
そして、ドアを軽くノックした。
「愛さん、入るよ。」
俊太郎は、そっとドアを開けた。
すると、肩を揺らしながらすすり泣く真田が居た。
「どうしたんだ愛さん?」
俊太郎は、もしかして・・・不安な気持ちで製作中のサンタクロースを見た。
すると、
真田が仕上げたサンタクロースの表情は、透き通ったガラスでは表現しずらい微笑みが、薄暗くなった部屋でもはっきりとわかる!
俊太郎は、スポットライトを点けて、像全体を照らした。
何とも優しい微笑みである。それに、それぞれに違うトナカイの表情と動き。
待ちきれないで両脚を持ち上げるのもいれば、足場を作るもの、振り返っ合図を待つもの。
そして彼等を操るサンタクロースは、子供達が待つ街へ幸せを届ける。
真田が表現したサンタクロースは父親であった。
「愛さん、素晴らしい作品だ!」
俊太郎は、涙してる真田へ言った。
真田がすすり泣いていたのは、満足感と父親への思いだった。
今でも、元気に町工場で働いている。
汚くて汗臭い。そんな父親を避けた時もあったが、父親はいつも笑っていた。
彫っていたのは父親の顔。
「愛さん、この作品を世に出してあげなさい。皆、きっと幸せな気分になれる。」
俊太郎は、そう言うと、
「お腹すいただろ!さぁ、囲炉裏で温まると良い。」
俊太郎は、真田へ雑炊を振る舞った。
「先生、私・・・本当に満足しています。」
「それは良かった。愛さん、明日はクリスマスイブだね、夕方には安曇野の芳樹や三枝さん、それに真帆も私に会いに、ここへ来るそうだ。」
そう言うと俊太郎は珍しく照れた。
「私を囲んでクリスマスパーティーをしてくれるそうだ。愛さんも来ないか?」
「そんな、ご家族のパーティーに私なんか。」
「そんな事はない。三枝さんも是非にと言っていた。」
「先生・・・」
真田は困惑したが、内心は嬉しかった。
その時、ディズニーランドへ行くと必ず耳にするメロディー。
イッツ・ア・スモールワールドの曲が俊太郎の脇に置いてある携帯から流れて来た。
俊太郎は、慌てポケットから携帯を取り出した。
そして開くと、
慣れない手つきで受話ボタンを押した。
「もしもし、あぁ、勿論居るよ・・・分かった。」
そう話すと携帯を閉じた。
「三枝さんが麓まで来た様だ。」
「先生、いつから携帯を?」
真田は、俊太郎が家電話もひかない事を知っていた。
ましてや携帯なんか。
「芳樹がうるさくてね、多分あれの母親から言われたのだろう。」
三枝がその伝言役を引き受けていた。
「叔父様、携帯電話持って下さい。何かあってからでは遅いですから。」
そう言われたら、さすがの俊太郎も持たざるを得なくなった。
しばらくすると三枝が真田を迎えに来てくれた。
「愛さん、携帯は便利だね。」
「とっても便利な物ですょ先生、だから私や三枝さん、皆んなにそれを使って甘えて下さい。」
「三枝さん、わざわざありがとうございます。」
「良いの真田さん、直美さんとあなたには岸本家の皆が感謝なんだから。」
そう言うと三枝は、真田へウィンクした。
俊太郎の閉ざされた心の扉の鍵を直美が掛けると、真田がそっと開いた。
その鍵を作ったのは三枝である。
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